やげん
後田の磯谷堤の所から自動車学校へ上る坂がやげんである。これは薬草などを粉にする、やげんに似た形をした洞であるからである。一般にはこうした形をうとう坂とよぶものの由。
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やすもり 安森
国道より南の三菱電機の工場の敷地が安森であるが、安森の名の由来は不明である。
三菱が工場を建てたのは昭和十七年。戦争が次第にきびしさを加え 空襲を受ける恐れがあったので名古屋から疎開したのであった。位置は道路より北である。翌十八年の二月から仕事が始められ、主に飛行機の部分を作った。工員は僅か五十六人であった。
扇風器の専門工場になるのは昭和二十八年からである
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やぶざか 藪坂
三菱から手賀野へ曲る所に食堂やぶざかがある。これは中津川の河岸段丘の斜面にて生い茂った竹藪を、手賀野へ登る坂がやぶざかであるからである。
尾崎から西ヶ丘町への道もやぶざかとよぶ。
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やまてちょう 山手町
下後田が更生と名を変えたのは昭和の始めであった。それから三十余年が経過して更生が住宅地帯になってくると、新しい住民の間には、更生では何か前によくないことをしていたという感じがある。何とか改めようではないか、という話が持上がるようになった。
昭和三十八年市で全面的な町名改正があると、この際にと町内で好名を募集し、役員で予選をした上、住民の人気投票に附した。その結果一位当選賞金千円が宮口麻雄氏の山手町であった。二位は山瀬喜大氏の緑ケ丘町であった。
こうして更生西が、大平と山手町になると、更生東も同様の手続の上西ヶ丘町となった。今更生の名は納税と農業の組合の二つに留まるのみとなったが、やがてこの二つも消え去っていくことであろう。
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やまのた 山の田
明治初年の地図で、茶屋坂の辺が山の田であるのは、江戸時代には このあたりが山の田といわれる程度のひらけ方をしていたことを示すものである。
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よがらす 夜烏
今の庭球コートの辺は、川原で松林があって烏のねぐらとなっておった。冬になると時々凍み死んで落ちていた。拾って来て喰ってみると 寒中の烏はけっこうくえた。
「そんなこた どうやよう知らんが 夜になると烏が来るもんで 夜烏という様になったかもしれんねえ」
「とや」は今や全くの昔話になろうとしているが、昭和十四年中津尋常高等小学校発行の中津郷土読本には「漬鳥は中津の名産」と書きしるされている。
大正五年十一月中津に遊んだ虚子は
大空に また湧き出でし 小鳥かな
木曾川の 今こそ光れ 渡り鳥 などを
大正十年十日来津の牧水は
恵那ぐもり 寒けき朝を 網はりて待てばおとりの さやか音になく
などを残した。今長多喜の庭には、この牧水の歌碑が建てられている。
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よきど 斧戸
織田信長の領有する美濃国に、武田勝頼の大軍が侵入して来たのは 天正二年(一五七四)のことであった。木曾義昌を将とする武田の一隊は木曾方面より来攻し、馬篭、中津二城を一日にして抜くと 手賀野の阿寺城へ襲いかかった。しかし城兵は堅く守って動ぜず 数日たっても落城しそうになかった。そこで水責めの策を案じた武田勢は、深夜ひそかに杣に命じてよきをもって用水のといを切り落さしめた。それからこの地をよきどとよぶようになった。
今は昔、川上の奥山で一人の行者が修業に励んでおった。しかし夜になって呼ぶようにまたたく、中津川の町の灯に、人恋しさに耐えきれず山を降り、根の上を通って今の斧戸までおりてきた。所がここで斧を研いている人に出あった。みるとその研ぎ方がいかにもおかしい。よく聞いてみると、この斧を研いでこれから針を作る所だという。そして更に手を休めようともしなかった。行者は己れの道心の未熟に気づき、きびすを返して山に帰り業に励み大成したという。この行者が精進した山がぎょうじゃ山であり、神様が斧を研ぐ人になって現れ戒めた所がよきどである。
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よこまち 横町
まっすぐに続いて来た本町筋が、ぐいと南へ横に折れ曲っているので横町である。本町に続く横町のこの鍵の手は、宿場や城下町には必ず作られたもので、ますがたとよばれている。大井にも落合にもはっきり残っているし、岩村にも苗木にもはっきりと認められる。敵が攻めて来た時に防ぐためのものだとか、この曲がりから曲がり迄人馬が並ぶと何人という具合に、人馬をはかるますに使ったのでますがたというのだとか、見通しを悪くして泊る気を起さすためのものだとかいわれている。
ますがたは、横町でみるように、先づ左に折れ、ついで右に曲るのが普通であった。そして大井ではますがたは町より江戸側、中津川では京都側、落合は江戸方、馬篭は京方と交互に位置している。ここに駅へ入る前の検問所があったろうという。江戸時代では官のものではなくて自身番であったらしい。
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よこみち 横道
自動車学校の西の辺、三区西山を横道とよぶのは、この部落の洞を道が横切っていくからである。
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よこやまちょう 横山町
新町のマル一加藤の所は橋本屋という宿屋であった。その東の道路とえびす床の辺は馬方宿で、朝になると三十頭もの馬が飯田方面へ出かけていったものである。
明治二十六年に、この橋本屋の地所百三十二坪と建物四十二坪、雪隠、長屋十二坪、附属建物二十六坪余などを四百五十円で買い取った加藤氏は、ここでたまり屋を始めた。
明治四十四年になると、ここに道路をつける話が起り、馬方宿の横山八太郎氏が、町名に自分の名を残すことを条件に宮町筋へ引越したので、この通りを横山町とよぶようになった。
この時加藤氏は家の東側三尺巾二十間の十坪を百八十円で買ったのであるが、十八年前の値段と比較してみる時、日清日露の両戦役を経過した日本のインフレが感じさせられる。
この時の横山町は旭座前までで、やがて大正十年新国道が開通すると、これでは何かと不便であった。そこで篤志寄附や町の補助金によって工事が始められ、大正十四年四月二十五日、現在の道路が完成したのであった。
収支計算をみると、収入は補助金千五百円。寄附金は間杢右衛門氏の三百円、間孔太郎氏の百円に始まり、約六十軒で合計千四百三十一円五十銭である。
支出は六戸の移転費が千三百六十円、工事費が八百十三円、土地代が六百五十円、設計費二十円、監督慰労三十円、雑費五十八円五十銭の合計二千九百三十一円五十銭であった。
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よつめがわ 四ツ目川
前山の削りとられた土砂は運ばれて、木曾川へ傾斜する扇状地となって発達した。この扇状地の上を流れる四ッ目川は、洪水の度に その流路を何度となく変えた。
人々の記憶に留まるようになってからでも、恵下より中村八幡神社の西側を流れて中津川へ入っていたのが、次の洪水の時、宗泉寺辺より西に流れるようになり、三度目の出水には、実戸から今の教会と西生寺との間を流れ横町を過ぎて中津川へ入り、四度目の大洪水の時、今の流路となった。このために四ツ目川と称するようになったのである。
時代はすべてはっきりとしないが宝暦元年(一七五一)閏六月二十六日四ツ目川大水、家多く流失の記録のあるところから、それ以前であることはまちがいない。
その後文化五年(一八○八)七月二十五日の大洪水では、実戸みつくだより新町淀川へと抜けたという。
昭和七年八月二十六日午後四時頃、中津の町を襲った山津波は、前山の大小三十余の山崩れによるものであった。水害の総被害高は三百万円に上り、家屋は流失六十三戸、埋没八十九戸、半壊百五十六戸、床上土砂入百十四戸、床下土砂入百戸、床下浸水千戸で、死者も二名あった。
河岸改修工事が行なわれると、土方の日当が八十銭で「いいぜにや」といわれた。工事の結果、現在のようなまっすぐな川になってしまったが、それ前は川筋も曲りくねっており、川岸には木が茂って、あめのうおなどもすんでおったという。
この水害の記祭碑が税務署の前に建っている。
一説には子野川、地蔵堂前、淀川の次、即ち四つ目にあるので四つ目川という。
四つ目川畔、実戸水神棟札に、元禄十年(一六九七)宝永二年(一七〇五)亭保九年(一七二四)宝暦元未年(一七五一)等の水害により被害が多いので祀る。安永二年(一七七三)とある由。
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よどがわ 淀川
水流という程のものはなくて、所々の溝のよどんだ赤い鉄分を含んだどぶ水が、少しずつ流れる程度であった。どよんとよどんだ小川なので、昔の字名は小淀川であった。
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りゅうせんじ 竜泉寺
根の土高原の一角を占める竜泉寺は、とやや、木の枝にもちをぬって小鳥を取る、さおぬりの名所であった。寺があったげな、武田の兵火に焼かれたそうな、などと伝えられる事と、礎石らしいものがあること以外、殆ど何も知られていない。
恵那神社誌、恵那郡史などの古書にも、竜泉寺は全くふれられていない。今小木曾志貴雄氏所蔵の古文書を紹介しておく。
「竜泉寺は浦陀山と号し、岩村、霧ケ城の鬼門うしとら、東北に当る。木曾義仲が、宝殿の前で馬から降りなかったので腰が痛くなってしまった。本堂、拝殿、護摩堂、九層宝塔、金殿、楼閣、厨庫、 山門、鐘楼、十二坊舎があった。この山門は後に阿木に移築されたという。寺領は千石余で(石と書いてあることからこの古文書の成立は太閣検地以後のものであることが分る)手賀野から千旦林、釜戸に及んでおり、観音田というのがそれである。毎年正月の十八日と二月初うまの日には、天から竜馬が降下し、立派な武士がこれに乗り山中を走りめぐった。竜馬が山中をかけ巡る時かんだ笹の葉の残りは、邪悪から遁れ福恵を増す功徳があり、病気の時にのませれば霊験たちどころに現れて治癒した。」
春日井の竜泉寺は ここから引移ったものとかいうが、問い合わせた所、関係ないという返事があった。
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れんがば 煉瓦場
上宿の道より北で段丘の東の端に、煉瓦を焼く所があったので煉瓦場とよぶようになった。教会の近くに住んでいた、煉瓦を焼く人市川氏を、子供たちは煉瓦場のおじさんとよんでいた。
明治三十年代に中央線敷設のための煉瓦を焼いたのである。損をしたという。。市川礼一氏は、手賀野の市川元次郎氏の弟である。
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れんり 連理
中村。連理は一本の木の枝が、他の木の枝と連って木埋の通ずるもののことで、夫婦又は男女の深い契りのことである。雌雄各々一目一翼で、常に一体となって飛ぶという比翼の鳥とならべ用いられるが、ここでの由来は不明。
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ろくろせ
手賀野。首が甚だ長く、自由にのびちぢみする妖怪のことを、ろくろ首という。
ろくろは重い物を引く時、地面にすえつけ、動かそうとする物に縄をつけ、これを中央にある縦軸に巻きつけ、この軸にとりつけた腕を回してひきよせるものであるが、このせのように丸くけわしいので、ろくろせ。
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わかみや 若宮 駒場尾崎
若宮を祭神として祀っているので若宮とよぶのである。
境内には古樹が生い茂っていたが、明治八年地租改正の折に伐採してしまったという。教科書の教える所では地租改正は明治六年であるが、恵那神社誌に明治八年とあるのは中央と地方の間に二年のずれがあったものであろうか。これ以後植林されたひのきもかなりの大木になっていたが、昭和三十四年の伊勢湾台風によって害を受け枯れ始めたために、全部伐採されその後にひのきが植林された。現在ではまだ人の背丈程度である。かなり大きいかしの木七本と杉一本が残されているが、笹とくずが一面に生い茂っている中央部に花崗岩の高さ一、五メートル、巾一メートル強の小祠がある。中は空っぽで、文字が刻んであるようだが風化激しく読み得ない。
四道将軍を派遣して四方を経営された崇神天皇は、その皇子八坂人彦命を可児郡の久々利に遣して美濃を治めしめられた。この八坂入彦命が市岡本陣の祖であり、前山の麓に督城を築いたという。市岡系譜に巨麻山之尾崎に、大祖廟を移す。とあるのが、この若宮のことという。中津へ移らしたのが四日やったとかで、市岡氏では四の日には参っておられたとか。
この若宮は古墳である。径約三十メートル、高さ三メートル程度の円墳で、葺石が残存している。中津では唯一の竪穴式古墳ではないかと推定されている。墓を掘って宝を取ろうとした人が打首になったげな、という伝えもあるが、出土品は一点もない。
中村 八幡神社より二百メートル程用水を下った木の下が若宮様である。若宮は中村の旧家まきもと酒井正栄氏の氏神として、二月十六日には祭りが行なわれている。
よくたたる神様で、戦前までは社の後の木の枝でブランコをした子供は必らず‘ほおはれ’になるとて恐れられていた。昭和三十五年にも祠の扉をあけてみた所病人が出てしまったので、神官に拝んでもらったことがあった。又同じ年、祖父の病床の夢枕に立った神のお告げにより家人が見にいくと、お告げの通りお祠の内扉があいておったという。
すぐそばの交告庄市氏の辺や、井水を越した安江英男氏の辺から刀が出たと伝えられているのは、この辺に古墳があったのではないかと考えられる。
若宮様が塚神に祭られることは最も多く、下伊奈では円墳上に必らず若宮を祀っているといっても差支えない程である。若宮は大きな神格の支配下に置かれる前提の下に、はげしく崇る霊魂を神として斎いこめたもので、祭を怠れば直ちに崇り、その活動のはげしさは 到底和やかにして偉大な神霊とは比べものにならぬほど人間的で、いわばまだ神になり切れぬ段階ともいうべき性格のものである。若宮を祀るのは古墳に限られてはいないが、古墳の所有者は若宮を氏神として墳上に祀り、塚神のはげしい崇を除いて、一家の安全と幸福を祈るのである。
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