ま行

 

まえやま
前山

まごひち
孫七

まちうら
町裏

まるね
丸根

みえばし
美恵橋

みさか
神坂

みちうえ みちした
道上・道下

みつくだばし

みどりまち
緑町

みの
美濃

みやまかいどう
上美山街

みやまち えびすまち
宮町

みょうけんちょう
妙見町

もちあな
餅穴

ももやま
桃山

もりした
森下

 

 

 

 










 

まえやま 前山
 恵那山の前にある山なので前山。最高点で一三五一メートル。

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まごひち 孫七
 西山 まごひっつあの草刈場やったもんで 孫七。

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まちうら 町裏
 給食センターの辺が町裏である。この場合町というのは東山道の駅、うまやのことで、この町の裏、即ち北側の意である。

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まるね 丸根
 西山 市岡平吉氏の裏は、どちらからみてもこんもりと丸いので丸ね。

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みえばし 美恵橋
 廃藩置県によって苗木藩の俸禄を離れた野村氏ら七人の武士が、退職金を資本として始めたのが 木曾川の渡し新渡しであった。
 しかし時の流れは架橋の必要を増し、遂に苗木の人鈴木三蔵が中心となって五千五百円の金を集め、ここに橋を架したのであった。時明治三十年のことである。
 美恵橋と名づけられたのは、美濃国恵那郡第一の橋という、鈴木三蔵の高らかな誇りがこめられていたからである。しかし人々は架橋募金のため、六尺ふんどしを越中にせよと説いて節約を訴えた三蔵の言葉を思い出して、ふんどし橋と呼んだという。
 晩年の三蔵は小さい隠居様で、この有料橋の橋守をしたが、首に「この親父つんぼ」の木の札をかけておった。これは気に入った人にしか返事をしないためのもので、勝手つんぼであったという。
 中央線が開通するまでは御岳まいりの人々は、大井、坂本、美恵橋、付知のコースを通って行った。白い行者姿の人々は木曾川を越すと もう御岳様に近づいた気分になり、津戸の坂をろっこんしょうじ と称えながら上っていった。
 現在の橋は、大正三年と昭和三十三年の二度流されたあと、昭和三十六年に完成した三度目のもので、三蔵の橋は今の水面よりも遥か下にかゝっておった。

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みさか 神坂
 関東を平定した後の日本武尊が通られたコースは碓氷峠(九五六メートル)を下り、ほぼ後世の東山道を通り、黒曜石の産地、和田峠(一五三一メートル)を越して諏訪盆地に出、それより伊奈谷を下り、大山(恵那山とよび始めたのは恐らく江戸時代のことと考えられる)を望み見ながらその北麓をまわって、下伊奈郡の阿智村を通り、科野坂(しなのざか)を越して中津川へ出たものと推定される。
 さて尊は科野坂のけわしい山中で、遂に飢え疲れ道に迷ってしまわれた。食事をしようとされた尊の前へ、山の神が白い鹿に化して出たので、尊は一個のひる(にんにく)をはじいて白鹿の眼にあて、これを殺された。この時、白い犬が現れ、尊を導いたので、漸く美濃国に出ることが出来た。高貴の尊が通行の折、山神を退治し給うたので 科野坂を、神の御坂 神坂とよぶようになったのである。
 またこれより以後、坂を越える時 ひるをかんで人や牛馬にぬると、神気に中らぬと伝えるようになった。ひるをかんでぬる所が、阿智川畔、神坂越の途上の昼神(ひるがみ)である。

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みちうえ みちした 道上 道下
 上宿の道は、今は中央線沿いに国道十九号線が通って閑散な道になったが、中仙道、東山道の昔から重要な道路であった。この道路の南が道上で、北が道下である。

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みつくだばし
 あのあたりの部落の名が、みつくだである所から、みつくだ橋と命名された。つくだは、つくりだのつづまったもので、荘園領主が直接に経営する田のことである。一色が一人だけの領有する荘園で、他の分を混じない田を意味する地名であるのとならんで、あの一帯は何らかのいわく因縁があったものであろうか。

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みどりまち 緑町
 中津川まで鉄道がひかれたのは明治三十五年であるが、緑色は生成発展する色であるとして、町の発展を祈り緑町と名づけたという。
 緑といえぱ、最近まで駅前の東側のバスターミナルの所に大きな柳があり、又大惣楽器店の辺にも柳が残っておった。大正の始めごろ 今のミツワの辺にミドリやという花屋があった。
 大正の中頃緑町筋には桜が植えてあった。今のシキシマパンの所まで鉄道の引込み線が入っており、勝野製糸の石炭置場になっていた。ここから馬車で各工場へ石炭を運んだ。そのため緑町は大げさにいえば馬糞だらけの町であった。
 夜になると辻占売りの声と、あんまの笛がよく聞こえた。艶歌師がバイオリンを弾いて、枯れすすきや、武男と浪子がパイのパイのパイ の歌などをうたい、薄い歌の本を売った。子供達は歌う時だけは聞いているが、歌の終頃になと、さっと散ってしまうのであった。
 どういう訳か、その頃の町には釘が多く落ちており、子供たちがその釘を手に一にぎり拾っていくと、五厘とか一銭とかもらえた。そのぜにで飴玉を買って喰うのが楽しみで、釘ひろいをした。電信棒の下を堀るとよく出て来た。その中に古釘を拾っていっても銭をくれんようになったのは、今から考えると第一次世界大戦の終了であったに相違いない。
 中学校問題がやかましくなった当時、一斗かんを二つか三つ縄でしばってひっぱりながら、十人位の若い衆が
 中津に建てよ、中学を・・・・・
と高唱しながら緑町をデモった。道路の石に当って、一斗かんば、がらん がらんと大きな音を立てた。これが中津川におけるデモのはしりであろう。
 この争いは大井の勝となり、大井に恵那中学校が建つと、中津川はこれに対抗して商業を建てた。大正十三年、商業の校舎が実戸に建った。現在の二中である「それにしても、何という田んぼの中に建てたもんやら。もうちいと町に近い所に建てりゃええに」と口さがのない町雀の噂にのぼったのであった。

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みの 美濃
 古事記、万葉集、国造本紀では三野、正倉院古文書大宝二年の戸籍には御野、六国史ではすべて美濃である。和銅年代に国名はすべて好字二字を選定せよと命令された折に、美濃の文字が固定したものである。後世、美乃、三乃等の字を使っているのは字が簡使であるからに過ぎない。
 国名の由来は古事記伝に「其の義 真野なるべし。此国平野開けたれば 称えてしか言えるなり」とあるのが妥当な線であろう。和名抄に、不破郡真野郷、本巣郡美濃郷をのせている。思うに上代伊吹山を越してやって来た人が、そこに開けた野を称えて真野とよび、更に大野(郡名)大垣北方、美濃と次第に東に拡がっていたものであろう。そして大化以後行政区画として国郡を定むるに及び、美濃国と称したものである。本巣は本棲、即ち本居の意である。三野前国(〈ちのくに)の国造がおったので、そこに美濃の古名が残ったのである。
 又御野は禁制野。狩を禁止された野の通称であり、御猟場があったからついた国名だとか、青野(大垣のむこう)各務野(自衛隊の飛行場がある)加茂野(美濃加茂市のむこう)の三つの広野、他の一説には青野・大野・各務野の三野、などの説もある。
 古くは、美濃・飛騨・信濃はひろく野の国であったが、後に三野 直野(ひたぬ)、級野に分かれた、と。
 歌などに使う枕詞は、みのが蓑に通ずる所から、蓑を作るのにたくさんの茎を使うので、百茎 ももくき、である。

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みやまかいどう 美山街道
 明治三十八年刊の、岐阜県恵那郡是という本には「里程凡四里十三町中仙道より分れ、阿木村阿木大井街道に合する。明治三十八年までに完成した分が七一四〇間で、五三五六円二一銭七厘、この中県費補助が九五〇円二七銭四厘で、あとは郡費負担、未完部が二二八〇間で予算二五〇一円」とある。
 また恵那神社誌には
「美山街道は橋場にて中仙道と分岐し、南に向いて手賀野に入る。此美山街道は、明治二十七年の起工にして、安藤喜太郎手賀野(敬介氏祖父)、伊藤為治等の発起に成り、郡費の補助及寄附金等にて開通せしものなり。延長三里十六町にして阿木村の大井街道に合す。駒場区内の延長は五町半なり」とある。
 鈴木床屋の西側の小路を入り、今の三菱の敷地内を通り抜け、手賀野へのぼった。後におとらさの店の前から三菱の西を通り、手賀野へ上る道が開かれた。蚕業取締所が三菱の所にあった当時は、この道が県道に指定されていた。
 手賀野を通り抜け、松林を通り、梶島橋は渡らないで、今は殆ど道もなくなっている西岸ばかりを川上へ行くのであった。
 本州製紙用水取入口の西岸の辺に氷池があって、中津で使用する氷はすべてここで作られた。氷は馬車でこの美山街道を下り倉前町や 相生町にあった氷倉にしまわれたのである。
 高橋の所には橋があった。普通は丸太を渡した程度の橋が多かったので、立派な高い橋というので高橋の名がついた。炭、たきぎを馬の背で運ぶのは、この橋を渡って丸三の東へ出て町へくるのであった。後高橋には発電所が作られるが昭和二七年八月の水害によって流失した。
 さて、このように川上、恵那山(みやま)へいく本道であったので、美山街道の名がついたのである。岩波文庫の訓読日本書紀に、大山とかいて、みやまと読んでいるのが恵那山である。
 大正の始め頃でも、恵那山は霊験あらたかなる山で、祭の前日の九月二十八日には願果たしの御礼参りに登山するものが多かった。一週間も前から、みそぎをし家の者とは別の飯をたいてたべ、身も心も潔め、金剛杖、笠に身を固めて登り、こもり堂へは大勢で入りきれんので火を焚いて夜を明かし、二十九日にはお前堂へおりて、お詣りするのであった。この頃には、女の人で登る人も稀にはあったが、何かあると女が登ってけがれたでやといわれた。
 川上から阿木へぬけるバス道が完通するのは戦後のことで、川上からむこうは細い道であった。

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みやまち 宮町 えぴすまち
 西宮があるので宮町。祀ってあるのが、おえべっ様であるので 恵比寿町 祭神は大国主命と事代主命。
 明治二十年頃から中津の町の発展につれて 商人有志の間に これだけ町の道がいたんでは 商いのさまたげにもまるから何とかしようという機運が盛り上って来た。そこで商人の神様である えびす様を迎えてお祭りをし その利益で年々道路の修理をしていこう、ということになり えびす講が作られ 講員二十何人の中の代表者が摂津の西宮へいき 迎えたのであった時に明治二十八年十二月のことであった。 (中津郷土読本では 明治二十七年)
 現在の位置に祀ったのは その前から実戸の大洲義明というねぎ様が 西の宮を自宅にまつり 毎月一月七日に祭を行ない 各商店の寄附を受けて賞品に出しお札様を出していたからである。当時この辺りは、ぐてしで 蓮池などもあり とび石を渡っていくような所であった。 お宮の位置も低かったのを埋立てて 今の高さにしたものである。
当時の講員は次の様な人々であった。
 マルサン 酒屋 現在の下町の間氏
 やまに  魚屋 現在横町角の小栗屋の位置 酒井氏 現在は杉野町居住。
 みつや  海産物 今の川上屋菓子店の位置
 一又 宿  新町丹羽紙店の東 現在は道路
 マルダイ 米 緑町 山科屋うなぎ店の辺。
 マル正  小間物
 とさじゅう 肥料 現在の淀川町 磯村氏。
 マル万  米 新町西尾電機店の位置 一岳の人がやっていた。
 柘植   茶碗
 佐平   はかり・ます 新町恵那信の位置 山中氏。
 ヤマ安  雑貨 新町安藤時計の位置。平野氏。
 かくだい 魚 緑町。
 つたのぶ 米
 ヤマツ  海産物 新町長瀬薬局の辺 前田氏青邨のうち。
 池田屋  米 新町すやの東の辺 久野氏。
 大政   たばこ 本町
 ヤマニ  米
 マル八  塩・米 郵便局の辺 間氏
 柿良   みそたまり 郵便局の筋向いの辺 かきりよう
 マル仙  米 昭和町
 小栗屋 塩・油・日用品 淀川町 現在の緑町の小栗屋石油
 かねまん 金物 淀川町
 木屋   みそ・たまり・乾物酒 太田町 現在の黒川屋支店の位置
 山中   畳表 現緑町の仁科の辺
 大津屋  材木 菅井氏
 当初の五、六年は神社の維持も困難な程の淋しさだったが、明治の末には十日市に一万余の人が参詣するようになった。
 新国道、宮町筋は市岡年雄氏が県会へ出た時、運動して作ったもので、当時はこんな家もない所に道なんぞ作っても、金ばっか使って 何にもなりやせん。と散々悪口をいったものであった。県議当選が大正八年で、新国道開通は大正十年頃のことである。
 戦前迄は早くいってお札様を迎えると幸運がくるとて、誰でも早いのが芸で、真暗なうちにお迎えにいった。そして、どこの家にも恵比寿様を祭る所が神棚に作ってあった。

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みょうけんちょう 妙見町
 緑町の農協会館の南側を東へ入る道すじが妙見町である。恵那神社誌に「妙見山 中津川駅より十四五町北木曾川畔の小丘 頂上に無格社高丘神社あり これに登れば 中津川の碧流を望んで風光頗る壮絶なり。更に巨岩を下り妙見堂の前を過ぎて絶頂を極むれば展望快活 木曾中津の二川を始め 恵那山苗木城址を望んで景勝最も賞すべし 中津八景の一」とあるように、明治の末頃、妙見山は中津の名所としてはやった。特に四月十五日のお祭はにぎわい、若い娘達は必ず帯つきで着飾り、弁当を持って妙見町を通り、妙見山で弁当をたべてまた妙見町を通って帰った。妙見様への通り道なので妙見町の名がついた。

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もちあな 餅穴

 川上 原康家氏屋号、部落の名でもある。穴の前に餅をいくらそなえてもなくなるので餅穴。

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ももやま 桃山
 明治の末から大正の始めごろ、今の田中喫茶店の辺にいた、近藤鉄吉という樋屋さんが、桃の木をたくさん植えた。それから桃山とよぶようになった。

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もりした 森下
 津島神社の森の下、森下は長瀬氏の屋号である。津島神社のうっそうたる森は、昭和二十三年伐られて一中建設費の一部となった。

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