Last Update 2003/11/12



は行

はくさんちょう
白山町
はしば
橋場
はちまんちょう
八幡町
はなぎちょう
花木町
はなびし
花菱
はばした
はまいば
はらへりざか
はんたやしき
番太屋敷
はんべさどうろ
半兵衛さ道路
ひだ
飛騨
ひちけんちょう
七軒町
ひづか
ひびの
日比野
ひめぐり
姫栗
ひめみや
姫宮
ひよどり
ふなぶせやま
覆舟山
へんぴいわ
ほうどうじ
法道寺・宝憧寺
ほしがみ
星ヶ見
ほりだ
ほんまち
本町










はくさんちょう 白山町
 茶屋坂の下から 白山町 北野 落合の道が出来て新中仙道となったのは 明治二十五年のことである。
 そのころ白山町には家はたった二軒であったという。中川神社──白山大権現へいく道ということで白山町となったのである。
 なお玉蔵橋への道は苗木新道とよばれて運送が通り始めのであった。

は行町名へ戻る


はしば 橋場
 駒場も川上も 橋のある所が橋場である。中仙道が中津川を渡る所が駒場の橋場である。江戸時代の橋は 長さ十四間 巾九尺というものであった。
 ここ橋場を柳町というのは その昔柳並木があったからである。安藤広重描く所の木曾海道六十九次の浮世絵中津川には、二本の柳をみることが出来る。
 江戸時代の道は下町の おてんの様の所から北の道を下っていっていたので 橋の位置は 今より多少北であった。 明治の橋は欄干が黒く塗ってあったという。橋を渡るとすぐの南側に 柳屋という旅屋があった。
 橋の西方十メートルばかり 道の北側に水準点がある。水準点は全国に約一万点あり 地図を作るために日本中の主要道路について ニキロ間隔に測定したもので 標石の高さが0、一ミリメートルの位まで正確に測ってあるという。測溝工事などで破損したものが多いが ここのものは原型を留める数少い例である。

は行町名へ戻る


はちまんちょう 八幡町
 八幡神社へいく道で 八幡様の氏子の町という意味。かおれへの道でもあった。丸三の酒屋の辻に古い道しるべが立っている。

は行町名へ戻る


はなぎちょう 花木町
 中津で最も早くひらけた町の一つであるが ここらあたりの古い地名が花の木であったので 花木町の名がついた。大きい花の木があったからではないか という人もあるが 花の木は俗に大葉もみじと呼んでいたので この説は怪しい。
 屋根の一番先端の瓦をはな瓦という様に はなは物事の始め 最初の意のはなで町にもっとも近い木立の意であったと考えられる。

は行町名へ戻る


はなどちょう 花戸町
 花木町から 実戸へいく道すじであるので花と戸をとって花戸町となった。

は行町名へ戻る


はなびし 花菱
 間孔太郎氏の借家が立ち並んでいたので 間家の紋所をとって花菱と名づけられた。中津銀座とよばれる程 中津では最初に発展した町筋であった。
 税務署は元は収税部といって郡の管轄であったが、明治二十九年大蔵省の管轄となり、中津川税務署と称しここ花菱におかれた。以後この位置で明治四十一年には中津税務署 四十二年には恵那税務署と称し、恵那郡内全域を管轄したのである。ここから次に裁判所の北現在の市役所分室の所へ移り 次に現在地へ移るのである。

は行町名へ戻る


はばした
 はば(巾) はんば(飯場) ばんば(番場) ばば(馬場)などはすべて崖地を意味している。橋場の恵那繭糸の西の辺が はば下であるが 中津川の作った河岸段丘の下の段で 正にはばの下である。
 手賀野の中津川よりの部落名が かみはば しもはばであるのも はば──崖──河岸段丘の上にある所から命名されたものであろう。
 柳田国男氏によると はばは「水の流れなどに接した丘陵地の末端 緩傾斜で水をひいて田にするまでの便宣のない所 山腹の僅かな平地で 休憩遠望に適した所。焼畑でなくて常畑にした所。西日本にはない地名」とある。

は行町名へ戻る


はまいば
 手賀野 松源寺のそば 安藤敬介氏の屋号が はまいばである。尾崎の大山氏 大野氏 並木氏の辺にも「百年も前にゃ はまいばちゅう うちがあったげな」と老人の中にはかすかに聞いている人がある。又川上の原政市氏の屋号がはまいばである。
 はまうち というのは正月に行う年占(としうら)の競技の一つである。はまという円く木の枝を曲げて作った輪を二組に分れた一組が 投げ転がし これを他の一組が手に手に持った樹技を投げて遮り 一定の境界線を突破するか否かによって その組のその年の運勢を占うものである。この破魔打を行う場所が破魔射場である。故老の中にもこの競技について知る人のない ことは 中津でこの破魔打が行なわれぬ様になってから 既に年久しいことを物語っている。
 手賀野の安藤氏は中津川に出水して交通が途絶した時、ここから中村へ矢文をとばし連絡した場所であると。
「昔はばくちやなんぞをやってぼわれた時 川を越いて逃げると もうぼってこんとした ものやったげなで 中村やなんぞで 悪いことをしたものは 川を越いて手賀野迄逃げこんだもんやった と聞いとるなえ」

は行町名へ戻る


はらへりざか
 中村 一日の草刈りの労働を終え 背中がしなう程の草をしょって坂を下る途中 一寸した登りになっているここでは 如何にも腹の空ったことが 身にしみるので はらへり坂の名がついた。

は行町名へ戻る


ばんたやしき 番太屋敷
 西校の西南 志津氏の下の辺が 番太のおった所である。番太は今でいえば 警察のような役目をしたものという。
「番太ちゆう人は 人をたたっからかいたり しよったげなぜも」

は行町名へ戻る


はんべさどうろ 半兵衛さ道路
 一中の下の道路が半兵衛さ道路である。これは大野半兵衛氏が昭和三年町議に当選し 同四年に奔走して追分までの道を作ったので 人々はその労を多として半兵衛さ道路とよんだのである。
 それまでは馬車の通る道がないため 一中の横の高木氏など一中辺の人は皆 津島神社の前まで馬車で来たものを一つ一つ背中でしょって運び上げたものであった。

は行町名へ戻る


ひだ 飛騨
 国造本紀 大宝賦役令に斐陀 万葉集 西大寺資財帳に斐太 とあるが 和銅以後は飛騨に決定している。文武天皇の時 国人が神馬を献じた所 朝廷で大層これを喜ばれたので これから飛騨に決定したという。
 騨というのは 連銭がたのまだらのある馬 一説にたてがみの黒い白馬のことであるが 国名以外には 殆んど使用されない字であるそのため 飛駄とかいたり飛弾としたものもある。
 国名の由来はよく分らないが 大和の飛騨から移住して来た遊部氏が新しい移住地も飛騨とよんだに始まるという。
 山や谷が衣のひだのようになっているので飛騨である。
 良材を産する 挽板(ひきいた)からである。挽手人(ひた人)即ち工匠の多い国であるからひだである。有名な飛騨の工は 個人の名ではなくて 飛騨出身の工人の意であろう。
 飛騨はもと ひたぬ と読み 直野 宮川流域の平地から来たものである。宮川流域古川盆地の前方後円墳は 尾張氏の勢力が可児郡から更に北上して ここに到ったものといわれる。
 山間の国であるので すべての水田は といを施して潅漑する。即ち といだから 飛騨である。

は行町名へ戻る


ひちけんちょう 七軒町
 駒場 下町 中村弘直氏の辺を七軒町というのは昔 この辺に 七軒 うちがあったからという。
 今は国道十九号で あとかたもないが 石屋坂を上った左手の消防ポンプ小屋の前の辺を「おやしき田」とよび深い井戸があった。
 これは駒場村の領主 久々利の千村氏の代官屋敷があったからである。糸魚川功見氏の辺が 裏門に当っていたため「うらもんの田んぼ」とよんでいた。

は行町名へ戻る


ひづか
 丸山の南 子野の辻村氏の水田を ひづかの田んぼとよんでいる。北野の古老にきくと 丸山も中央線を渡った北方の 割烹旅館 木曾路のある小山も ひづかとよんでいたという。火塚は戦争があって 火の雨が降って来た時 逃げこむ所といい伝えられているもので 全国的に広く分布している地名である。
 丸山に三基 木曾路の方に四基の横穴式古墳が確認されている。恵那神社誌には「北野には以前許多の古墳ありしが、漸次開墾発掘せりと。特に明治の初年頃、もし黄金にても出ずべきかと 無意味に数多の古墳を取こぼち 云々」の記事があるが この七基の外は分らない。
 横穴式の円墳は古墳時代後期の家族墳で 入口を石でふさいでおき 家族が死ぬと この石をのけて奥の部屋へ運んで葬ったものである。
 丸山及北丸山の古墳群は中央線敷設工事の際ほられて 土器のかけらが多く出たという。
 丸山のものは 落合小学校に 北丸山のものは北野の足立氏が収蔵しておられる。この出土品よりみるに北丸山の古墳は六世紀終りに造営されたものである。

は行町名へ戻る


ひびの 日比野

 付知川が木曾川へ流れこむ少し手前を 日比の渡しとよんでいる。日比氏が高山の方から 苗木側へ越した所なので この名がついたという。
 また品の字岩と対する苗木側の丘を 日比蔵人の些あとと伝えている。今いってみると木曾川北岸の絶壁上ながら 苗木城よりはかなり広く 堀のあとや 石垣のあとが認められる。
 昭和四十一年三月 吉村金七氏の栗畑から 中国渡来の古銭約二干八百枚が 室町時代のものと推定される、中にも外にも釉薬のかかった壷に入って出土している。現在は採石場になっていて 跡形もないが出土地の西側には古井戸の跡もあったことなどから 古い時代にこの辺りに有力な人物か住んで居ったことは間違いのない所である。
 さて前述の日比氏が移って拓いた村なので日比氏の村から日比野になったのである。

は行町名へ戻る


ひめぐり 姫栗
 後醍醐天皇の皇孫 尹良親王が南朝回復の夢を抱いて活躍された遺跡が 笠置山を中心に多く伝えられている。この南朝方の姫君の御厨があったので 姫ぐりである。みくり みくりやは皇室領や 神社の領地を呼んだことばである。
 恵那神社誌に中村が伊勢神宮の御厨であり 八幡神社の鳥居の内に広い馬場があるのは 御厨屋の跡のしるしとあるが はっきりしたことは分らない。
 笠置山を一巡する太陽が東から出て 西に没する巡路に当るので 陽巡りである。
 姫栗の加須里は 此の地を開拓した 和田氏 小田氏に貸した土地であった。即ち貸里 が   加須里になったものである。太閣検地の後貢租のことを姫栗に一緒にしてくれるように頼みこんだから 同村の土地となった。

は行町名へ戻る


ひめみや 姫宮
 駒場尾崎 中央線踏切北の 丹羽勇氏宅を姫宮とよぶのは「この花さくや姫」を祀ったという姫宮が 同氏の氏神であるからである。この姫宮と若宮はもと夫婦神であり 一時は若宮の方へ越していたこともあったが 又離れて現在の様になった。
 丹羽家は明治四十二年四月二十六日火災の難にあったので 今後こうした厄がないようにと この日を姫宮の祭日と定めた。そして近所の人によってもらい丁度竹の子のシーズンとて 竹の子を煮 酒を呑んでもらい 子供たちには餅なげをして祭りを行なって来た。この火災によって書いたものなど一切を焼失したという。
 丹羽家のばあ様たちは小さい時 この花さくや姫の子孫やできりょうがよいわいなどと冷かされたという。
 今はあたりはすべて 水田畑であるが江戸時代には大木が生い茂っていた。中に 一本だけをとってみても直径が六尺もある、ひのきと杉が根元で合した二股の大木があった。天保の頃──明治になる三十年程前福昌寺再建の際 この大木を天井坂の用材にと切り倒したのであるが この一本を切るだけでも十何日もかかった。この老木の切り口からは血のような水が流れ出 その木が倒れる時には白昼であるのに、丹羽氏の家だけ一時暗夜の如くなった。又この木の中から錫杖も一本出て来たという話である。

は行町名へ戻る


ひよどり
 奥西山から降った 木曾川斜面にひよどりがある。大正末年 大井のダムが木曾川の流れ行く水をとめてしまうまで 木曾川は木曾節に歌われているように木曾のなかのりさんが材木を流した。この人たちをひようさとよんだ。或時 足を踏み外した ひようさが木曾川の激潭に呑みこまれてしまった。昨今のような交通事故もない 平和な時代だけに このニュースは長く伝わり ひようさがとられてしまったので ひよどり とよぶ様になったのである。

は行町名へ戻る


ふなぶせやま 覆舟山
 恵那山は遠くより眺める時 丁度舟を伏せた形に見えるのでこの名がある。特に木曾の御嶽の頂上より見る恵那山の姿はこの名にふさわしい。

は行町名へ戻る


へんびいわ
 へんびいわみたいに 長たらしい岩だから。西山。

は行町名へ戻る


ほうどうじ 法道寺 宝憧寺
 宗泉寺の下の方の字 市岡家の先代 正四位兵部大輔憲政 天永二年卒(一一一一)菩堤のため殿舎を造築し 真言の密場七堂伽藍を建立したもので その後代々の墓所はこの境内にあったという。建立 消滅ともに年代不明である。
 ここの辺りに ほうどうじ どじべえ という大狐か居ったと。
 交告又市氏宅の西は ちょっとした築山で 子供が三人のれる位の大きな石があった。昭和十八年 畑にしようとして掘り始めてみると 色々の土器が出るので おじいさんが丁寧にほり出した。数多くの出土品のうち はそうという横腹に穴のあいた用途不明のつぼ 首が横の方についたつぼ 水筒型のつぼ 高つき 蓋のついた深皿様のつきなど 十箇は現在も所蔵している。
 名古屋大学樽崎彰一氏の鑑定によると六世紀終り頃のものであるという。
 その時 二三本のぼろぼろにさびた刀も出て来た。割と長いので折ろうとしたが中々折れない。しかたなく折り曲げて ぼろ屋に売り払ったという。
 この畑の上の水田の石かけは この古墳の石壁をそのまま利用したものらしく 大きな石がみられる。
 古墳は古代豪族の墓であるから 古墳よりみて少くとも六世紀以前に ここらあたり、かなりの数の人間が生活していたことは疑えない。中村の名が示すようにこの辺の拓かれたのは 中津でも最も古い時代であろう。

は行町名へ戻る


ほしがみ 星ヶ見
 西山 ここの大きな岩と岩の間からは 昼間でも星の輝くのが見えるというので。
 昭和四年四月 中津 手賀野 駒場三地区の区有財産合併が行なわれたが 石山は駒場産業振興財団法人として残された。
 昭和八年 財団は石山の一部処分を決した所 地元民等の強力なる反対を受け 京都市の吉村石材店との交渉が不調に終った。しかし昭和十二年には拾年を限って 大山春吉 福岡万治の両氏に石山の一部を売却する契約が成立した。
 昭和二十六年 駒場財団解散 石材事業も中津川市へ移管された。
 昭和三十八年には鈴木石材加工工場が建設され 同四十年には同工場の手によって 三河安城 の明治川神社の四十五尺の大鳥居が搬出された。現在取引先は福井 富山 慈賀 三重 愛知 長野の各県にわたっている。

は行町名へ戻る


ほりだ
 西校東 曾我一郎氏屋号。

は行町名へ戻る


ほんまち 本町
 徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長八年(一六〇三)に江戸幕府は大久保石見守長安を奉行として中仙道の改修を行ない 翌年工成ると共に宿駅の改廃を行なったという。従って駒場駅を廃して 本町を中心とする宿場を置いたのは この年であると考えられる。
 本陣──一軍の大将のいる陣所から転じて諸大名など貴人の宿泊される宿舎──のある町 宿場の中心部が本町である。東芝月販売会社その裏の三楽 及び市岡氏にかけての区画が中津川本陣であった。本陣市岡長右衛門の後である市岡家は 本陣日記などの諸記録を所蔵している。
 本陣の前 今の電報電話公社の辺に脇本陣──本陣の都合がつかぬ時大名が宿泊した──森氏があった。森氏を上問屋というのは中津へくる前岩村で上下二軒のうちの上の問屋(人馬の継立などの事務を掌どった所)をつとめたからである。
 中津川村の庄屋は肥田九郎兵衛で 家は電々公社の西 今の曾我氏の所であった。
 中津川宿には馬二十五匹 人夫二十五人が常に用意され大井までの二里半 落合宿と一諸になって馬篭までの二里五丁を送り迎えていたのである。しかしこの人馬だけで、まかない切れぬ時は 近くの村々から応援を求めた。これが助郷である。駒場村 手賀野村 千旦林村 茄子川村 上地村 日比野村 高山村 福岡村 下野村 上野村 坂下村 瀬戸村 阿木村の十三ヶ村で 三代将軍家光の頃の寛永の村高で八千七百石であった。この助郷は農民にとっては大きな負担であった。水田所有の割合に応じて賦課されたため 幕末になって 助郷が多く割当てられるようになると 農民はその負担に耐えかね 水田に酒をつけて もらってもらう ということさえあったという。
 明治十三年六月二十八日十一時二十分 明治天皇は中津川行在所森孫右衛門方へ着御あらせられた。この記念碑が 電々公社の西に建っている。
 この時一行の休憩所となった家の町名には東新町、西新町 下町 仲町(肥田九郎兵衛宅が仲町となっている)淀川町 横町 本町があげられている。これによって 明治初年の中津川に以上の町があったことは明らかである。
 昼食の値段及献立は次の通りであった。
 一等 勅任 二十銭、皿には鯉の洗身 きゆうり のり 岩たけ しそ わさび しょうゆ 椀には巻玉子 生ふ ささぎ 椎たけ かんぴよう ゆず。引肴(折敷に盛って出す引出の肴) として  川魚の煮つけ。猪口には きゆうりとたらの すもみ。汁には豆腐と青いもの。香のもの二種。
 二等 奏任 十五銭、皿には鯉の洗身 きゆうり のり 岩たけ しそ わさぴ しょうゆ。椀には蒸玉子 生ふ ささぎ 椎たけ かんぴょう ゆず。猪口にはきゅうりとたらのすもみ。汁は豆腐と青いもの香のもの二種。
 三等は判任及下士官 十二銭、皿に鯉洗身 きゅうり 岩たけ。椀にのし焼玉子 生ふ ささぎ しいたけ ゆば ゆず。汁は豆腐だけ。
 ついでながら宿泊賃は一等四十銭 二等三十五銭 三等三十銭 四等二十銭であった。
 中津川より大井までの里程は 二里二十四町四十五間半あり 人足一人は十八銭八厘で 手数料が一銭九厘〆て二十銭七厘。馬一匹は三十銭九厘に手数料三銭一厘を加えて三十四銭 人力車一輛は二十六銭九厘に二銭七厘の手数料を加えて二十九銭六厘である。二十八日の午前八時までに中津川から六輛 大井村より七輛などの手配がしてある所をみると 当時中津には六輛の人力車があったことが知られる。
 供の名簿の中に野木陸軍中尉の名があるが 後の乃木希典大将であるうか。
 明治十五年五月九日に菅井九三氏より三星社渡辺梅蔵氏へ家屋敷を売渡した証文が残っている。これによると 本町今のびぜん屋の場所で 宅地一七八坪居宅四九、五坪 土蔵五坪 小屋二三坪 雪隠二ケ所 境塀五間で 千三拾円 であった。
 当時中津川村のお旦那衆の中には俳句をたしなむ人が多かった。中津の俳句は芭蕉の弟子 各務支考の流れをくむもので いわゆる獅子門 美濃派の俳句で俗談平話を旨としたものである。
 俳人には桑陰(馬島靖庵、今の仲神自転車の前パチンコ屋の辺に住んでいた。藤村の夜明け前に出てくる宮川寛斎である。夜明け前といえば 主人公青山半蔵──藤村の父島崎正樹──の友人蜂谷香蔵は市長間孔太郎氏の曾祖父 間秀矩であり 浅見景蔵は本陣市岡殷政で 前市長市岡のぶ介氏の曾祖父である)
 馬風(庄屋肥田九郎兵衛)梅丘(三星社渡辺梅蔵氏)馬良(菅井蠖氏)万法堂(本陣市岡年雄氏)中村の成木蝶哉などがある。
 馬風は中津川の俳句の宗匠をつとめた人で 旭丘には明治十三年に建てた句碑がある。
 菊折りて すてて又折る山路かな
 梅丘は馬風のあとをついだ宗匠でその辞世の句は
もがいても ほざいてももう 夏氷
 蝶哉 の句牌 も旭丘にある。
 無為にして 祖田を守る 案山子かな。

は行町名へ戻る