な行

なえぎ
苗木
なおれ
なかぎり
中切
なかどり
なかつがわ
中津川
なかのたいら
おくのたいら
なかのほう
中野方
なかのま
中沼
なかむら
中村
なぎざか
苗木坂
なるいわ
にしかわ
西川
にしのま
西沼
にしやま
西山
ねぎや
弥宣屋
ねのうえ
根の上










なえぎ 苗木
 苗木のお殿様であった遠山家に伝わる 高森根元という書物によると 苗木の名の起源は次の通りである。
 奈良時代の始め 元正天皇の養老九年──養老は八年までで九年はないが七二五年にあたる──荒田栄久人道という 非常に信仰深い者がおった。
 或時願をかけて信心をした所 栄久人道の庭前に杉の苗木七本が現れた。奇異の思いをなす所 急に彼の長男が気が変になって うわごとを口走り始めた。即ち「私は 牛頭天王の神木であるが これからこの地の守護神となろう。だから永代にわたって 富貴繁昌するであろう。」と 栄久は歓喜拝伏し 清冽の土地を求めて この苗木を植えた。それでここを植苗木というようになった。これが福岡村の植苗木である。
 その後建武の頃になって 遠山一雲人道と長男加藤左衛門尉景長の父子もこの地に住み 広恵寺に居城をもっていた。
 くだって鉄砲や切支丹の伝来した天文年中に、正廉朝臣が高森に械を築いて引移り 苗木をうえた。そしてこの縁起の良い名を引継いで 苗木と呼んだのである。

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なおれ
 大正十三年 大井にダムが出来るまでは 木曾川は文字通り岩を歯む激流であった。美恵橋の一寸上流の辺が なおれと呼ばれていたが これは恐らく波折れで川が力ーブしているため 波が常に白く立っていたからであろう。
 この急流を材木が流れていくのは冬場のことであった。木でも竹でも伐採するのは 古来二八月ということになっている。八月には伐った木を皮をはぎ 適当の長さにし 特別上等の木には岩にぶつかった時 割れるように 木口に鉄の輪をはめ 谷に下ろし 木曾川まで流し出してくると冬になるのであった。
 川の途中にとまっている木を とび口を持った ひようさ達が流してやる様子 川流しの終りに、がまなどに一本も残らないように整理していく小さい舟などを、子供達は折々見物に 出かけたものであった。
 ひようさの着る はっぴは その紋印が小さい程えらい人であった。明治以前には 木曾川筋には所々に川流しのための番小屋まであった。この一本ずつ流された木が集められて 筏に組まれるのは、可児郡の錦津まで木曾川を下ってからである。

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なかぎり 中切
 中切というのは どこにもある部落名で、切りひらいたまん中にある意である。尾崎中切と続けていうけれども 中央線の南が中切 北へ渡ると尾崎である。町裏から進むと中切というのは東山道のひらかれる以前に、水田などがかなり多くあったものであろう。手賀野公会堂の辺も中切であった。

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ながどり
 西小学校の南 吉村貢氏の北の水田や 市川志賀氏の北の水田を ながどり とよんでいた。
 これは横にながい田んぼから 米をとる所から、ながどりとなったのであろう。

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なかつがわ 中津川
 部落のまん中を川が流れているので 中津川である。津は天津神 国津神というように 昔のいい方である。しかし 奈良時代に好字二字を用いる事になったため書物などには 中川 とかいた。延喜式という平安時代の本に中川神社としてのっているのもそのためである。中津川も 中川も ともに読み方は「ナカツガワ」であったという。
 一説にはもと中川であったのに 後に中津川と津を入れたという。
 中山道の宿駅が中津川におかれたのは慶長八年(一六〇三)のことで 奉行大久保石見守長安の監督のもとに駒場から本町に移ったものといわれている。
 中津川村は江戸時代には木曾福島の関所を守った山村甚兵衛の領する所であり 常に代官が派遣されておった。南校から北への道が代官町とよばれたこともあるがこの道は南校が出来た後の新しい道で 西生寺の上の辺から 国道十九号を渡って上のお稲荷さんの辺までの広い一帯が代官屋敷であった。
 高は一三三四石六斗三升で 田八八町七畝一五歩、畑三一町九反八畝二一歩。寛政年間の戸数は三二六戸、男女二一五三人である。このころ町の長さは十町七間。町の名は 下町 横町 本町 新町 淀川町 家数は一七五戸 男女一二二七人。穀物 塩 味噌 溜 酒 小間物 呉服物 古手 木綿 檜笠 篠の箱などを売った。又三八の日には市が立ち 苗木領の諸村より莚 紙 木綿の類を持出たという。
 明治八年の中津川村は六九七戸 二九五二人。明治三十年には八一九戸であった。この年 中津川町 駒場村 手賀野村が合併するに当って、町名を中津町と改名したのである。この名が今も北恵那の電車駅に残っている。明治三十四年新築の町役場は教会の上の洋裁学校の所にあった。
 昭和二十六年市制を目ざして苗木町を合併するに際して、古来の中津川に復したのである。

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なかのたいら おくのたいら
 川上 共に平地という程の平な所はない。この場合の平というのは耕地をさしている。
 奥西山の安藤氏の辺も 中の平であるが ここには平地がある。

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なかのほう 中野方
 保は古代の郷(村)の中に拓かれた 新開地のことである。中の保が中野方になったものと考えられる。武儀郡には下之保 中之保 上之保 とならんだ村がある。中の方にある洞 盆地の中の方の村の意。
 中野方川が木曾川に合う所が河合である。

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なかのま 中沼
 手賀町の林若次郎氏の西の辺が中沼である。
『あの辺にどじょ池があってなえ おらが子供時分いなごが大変おったむんじゃで どじょ池へ行こまいかてっちゃあ、いなごつらめに行ったむんじゃなえ。
 どじょは さぶい時に さらえたむんじゃで「どじょ取るなんて 猫じゃのい」ちゅうと「大変おるぞよ」ちっていきょうらしたなえ。
 あの辺は総体に深い田んぼで 木のいえへ上っとっちゃあ 植えたり刈ったりしたむんじゃなえ。
 どうやら、おらが嫁入りした時分にゃ どじょ池はまあなかったで 明治三十年代の中頃にゃ 田んぼにしたむんかいねえ。 区で、もやって松の木をしばって入れ、その上へもやをかぶせて暗渠排水をしたもんじゃなえ。こいではしゃぐちゅうと だちきゃへんが、水の中じゃ腐りゃせんでなえ』
 当時は一般に湿田が多かったもので 給食センターの東の辺も ひるが おる程の沼田で 長沼とよばれていた。

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なかむら 中村
 川上と実戸の中にある村なので中村。恵那神社と中川神社の間にあるので中村 八幡宮は武士が敬神した神なので中央の神という様になり ここを中村というようになった。などの由来が伝えられている。
 中村 北野村の村というのは 家が群がってある。家群──いえむら がその語源である。
 丸山 上金 中村 若宮などの古墳は古代の有力者の墓であるが 有力者とよばれる程の人物が出現する規模の家群 耕作地 水田があったことを証朋するものでもある。
 こうした自然の集落はその生活の中心に、神社を持っておった。神社は後に山をひかえ 前には田畑や野の低地をひろげ 集落を見守る様な位置に多く建てられた。北野の中川神社 中村の八幡神社 駒場の津島神社 阿木飯沼の神明神社など みなこれである。
 ここで古い神社の中では 恵那神社だけが 川上に古墳がなく 古代の水田耕作地と結びつきにくいのはどういうわけであろうか。
 中村二十五屋敷と俗にいい古いうちが 二十五軒あったものという。

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なぎざか 苗木坂
 いざなぎのみことが いざなみのみことを よみの国に訪ね、逃げ戻った時 迫いかけてきた よもつしこめを遮るために投げた杖から、なり出た神が塞の神である。こでの木の坂の頭に墓などが寄せ集めてあるが、この中に身体は一人だけれど 顔は二人の神様がある これが塞の神 道祖神で 道路の悪魔を防いで 旅人の安全を守る神である。さいの神は妻の神などとも書き いつのまにか縁結びの神にもなり 相愛の男女が願かけをするようにもなった。川上旧学校の下の辺を塞の神とよぶのも、ここに塞の神が祀ってあるからである。この塞の神の右肩に是より苗木道の文字を読むことができる。
 また青木稲荷の鳥居の左にも大きな石の道しるべがあり 文化十二亥二月 右なへ木道 左やま道の文字が刻みこまれている。これは元は石段の下にあった。
 苗木道は、苗木一万五百石の城主遠山氏の参勤交替の道すじであった名残である。城に到る道をたどってみると まず中仙道からの分岐点は 前述の道祖神の石橋の所であった。それが耕地整理の関係で 現在のように こでの木坂の一番東の端につけかえられたのである。青木稲荷の前を通り 津島神社の前 ついでえんか──一中へいく道の左手の地蔵のある所は 昔えんこうあんという尼寺であった。それが訛って えんか──坂を北へ下り 後田川を渡った所が しようのみや──ここには池があって 昔は海水がこの池に通い、塩からかったので 塩の宮といった。この宮は明治二十年津島神社の境内末社として移転したので、今はあとかたもない。ここで木節粘土を掘った 鈴木美喜氏の話によると いくら棒をさしてやってもずくずくと入っていって 底の知れぬ所があったが これが海へ続いているといわれた原因であろうという。──後田川に沿って下り 関電社宅の辺の坂を上る。苗木坂がつまって なぎざかである。
 商業高校の西の辺を越して下る坂は すなざか。北恵那鉄道の鉄橋の少し下流の しだらの森──大井に大正十三年ダムが完成し 次第に木曾川に士砂が堆積し 昭和十四年の大水で床上浸水するまで 設楽氏はここにいた。この辺に水田約一町歩があった。渡しはここにあり 木曾川増水で川止めになった時の連絡用の矢文をとばす弓が 今でも設楽にしまってある。ここで木曾川を対岸の上地へ渡り 城山のじょうろく(城麓)の坂を登り そのまま行けば飛騨への道、坂の頭で西へ行くとお城の門であった。
 これが江戸時代三百年を通じて 苗木と中仙道を結ぶ道であった。

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なるいわ
 本州製紙の南西 道路わきの岩で 川上川の水が岩にぶつかって鳴るので鳴岩 ここが川上と中村との境で 大正の末年の頃までは川上の人々は田で拝んで虫や病気を封じこめた七夕様を ここまで送って来たものであった。

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にしかわ 西川
 手賀野の西を流れているので西川。この川の水が地下へもぐって水が見えなくなった所が水なし。
 やがて駒場へ入って米田川。津島神社の前を流れるので前川。後田川と合流して中津川へ入る。

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にしのま 西沼
 手賀野公開堂の南の方には 西沼とよばれる沼池があったが これは浅かったという。

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にしやま 西山

 西の方にある山なので西山。町の東にあれば京都のように東山である。
 二十三区の開拓について略述する。 西山はもと 駒場の区有財産で薪炭用地 採草地として各戸に数反歩ずつ 割山として貸付けられていた。明治二十年代になって 自分の割山内に試験的に水田開発を行なった先覚者は 大山要二郎 長瀬太市 島崎辰蔵の三氏であった。
 西山に移住した第一号は 安藤為蔵氏で明治三十八年のことである。
 明治四十三年 四十五年及大正二年と 西山一帯に松喰虫が大発生し 松は殆ど全滅した。
 大正三年 駒場区は西山一帯に水田五十町歩を開墾することを目標として 駒場耕地整理組合設立を出願許下 発足した。
 大正五年第一神谷堤 大正十年第二市岡氏前 大正十三年住宅下の第三の各溜池完成。開拓地には補助金を 移住者には耕地三反歩特売の条件をつけて開拓の促進をはかり 昭和三年 田畑合計五十町歩の開拓を終り 検査完了した。
 昭和四年四月 中津 手賀野 駒場の区有財産合併が行なわれ 駒場は 駒場産業振興財団法人として石山 競技場 神社有公共備田として開墾地若干を残して財産区の合併をした。
 昭和十七年戸数二十の奥西山を二十三区と認められ、県の指定に基き 共同作業共同炊事を行なった。引きつづき 昭和十八年第一次農地解放 岐阜県第一号に指定された西山は 市岡平吉氏を委員長におし 曲折の後 昭和二十年三月農地解放が行なわれた 戦後は 昭和二十一年電灯工事完了 同年千葉県より乳牛五頭導入 中津酪農の始まりである。二十八年八月国鉄バス運転開始。三十五年市営住宅四十戸建築三十七年有線電話架設 と発展した。
 昭和四十年度より五ヶ年事業として 県営西山地区パイロット事業が 総工費七億九千万円をもって施工され 完成の暁には 水田四〇ヘクタール 畑三一五ヘクタールが開かれ 乳牛一五〇〇頭が導入されることになっている。
 安藤為蔵氏の話。
 明治三十八年三月 私が十六才で高等四年を卒業するまぢか 父と兄と三人で将来のことを話しあった。私はこの中村の百姓が 一戸平均三反五畝位の水田しか持たず 生活の苦しいのをよく見聞きしとったので、ブラジルヘ移民しようと考え 旅費三百円小づかい五十円を出してくれ 必ず大百姓になるから と頼んだ。しかし父はブラジルは遠すぎる。中津にもブラジルはある。どうだ そこを開拓しては と勧めるので松田と西山を三回ずつ調べ その結果西山へ入る決心をした。しかし西山は駒場の者でなくては掘れないというきまりがあったので 父の弟の島崎亀吉の名で二町五反を五十年一斗の鍬下年期でかりて入植した。
 わたしは父と二人で小さな小屋を作り開拓を始めた。この頃は中央線から西には家など一軒もなく 草刈りにくる人に会う時の外は 人の顔をみることは殆どなかった。小屋は地面に芝を刈って来て敷き その上に眠た。寝ていると背中がもこもこするので 父にきくともぐらが穴をほっている所だという。夜になると小屋のそばで きつねや ふくろうがなくので 父が町へお使にいった時は、気味が悪くて眠れないこともあった。
 開懇はぶち切を使うと 根はよく切れるがふるい出しにくいので備中を使うことにした。普通では軽すぎるので五百匁のものを注文したが まだ軽すぎるので一貫二百匁のを作った。さすがにこれは重すぎて 研究の結果は八百匁のものが丁度手頃であった。そして十年の苦心の末 水田二町二反 畑六反 竹やぶ一反柿畑一反の三町歩の田畑を開いた。
 初めのうちは害虫が居らんので こやしさえやればよく出来た。畑には始めは麦かじゃがいもしか作らなかったが 金もうけのために西瓜やトマトも作った。西瓜は中津で一番始めに作ったので 人々は西瓜をよく知らず なかなか買ってくれなくて困った。卜マトも中津で一番始めに作ったが これも買ってくれる人もなく 自分でも喰えず 捨てたり、こやしにしてしまったりした。
 食べ物は父の好きな酒と 塩を買うだけで外のものは殆ど買わなかった。池に鯉をかったり 網をはって小鳥をとったりして栄養をつけた。味噌 しょうゆは勿論うちで作ったが さとうきびを作って砂糖を作リ サフランを栽培して薬にしたりした。
 入植した頃はカンテラをとぼいたが ランブを使う様になった。大正五年林与八さんと相談し役場や 会社とも交渉し 一軒八円のぜにを出せば電灯がひける所までいったが 電灯よりも石油が安いといって反対が多かったので おじゃんになった。

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ねぎや 弥宣屋
 手賀野 小木曾志貴雄氏の屋号を ねぎや とよぶのは 小木曾氏はもと川上恵那神社のねぎ様 神官であったからである。小木曾氏が神職を辞するのは明治四年六月 笠松県より 旧弥宣廃止の布告に接してからであるが それ以後でも小木曾氏の奥屋敷は神殿になっていて 家人でも女は絶対に入ることが出来なかった。大正の始めでも嫁は
 「一年たったって 二年たったって 入った事はないぞよ」

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ねのうえ 根の上
 峯の上ではなくて 手賀野 てがねの上である。従って千旦林や 茄子川の人々がねの上と呼ばぬのは当然のことであった。

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