た行

だいいちようすい
第一用水
たいしょうまち
大正町
だいみょうじん
大明神
だいらばやし
たからまち
田柄町
たていし
立石
たちばなちょう
立花町
たなか
田中
ちゃやざか
茶屋坂
ちょっかいどう
直海島
つかひら
つけち
付知
つしまちょう
津島町
つと
津戸
つめたがわ・ぬるがわ
冷川・温川
てがの
手賀野
てらやしき
寺屋敷
てんのはら
天王原
でんばね
てんまちょう
伝馬町
といしばら
とうさんどう
東山道
とうやま
遠山
とくのじょう
督の城・徳の城
とちのき










だいいちようすい 第一用水
 斧戸 沢の口から取り入れ 手賀野を潅漑する用水を第一用水とよぶ 上井水ともよび 古くは吉田井水とよんでいた。
 吉田氏の祖先の助左衛門という人が 出雲の仕官を辞して中津川にやって来たのは 文禄の頃(一五九〇年代)であった。慶長年間にこの地の開懇を始め 元和年中(一六一五年頃)に到って十余町歩を終った。そこで当時の駒場 手賀野の人達とはかり 吉田氏が主脳となってこの用水をひらいたので 吉田井水とよぱれるようになった。明治も二十年代までは ゆざらえの日には 吉田氏より酒食を供したという。『ゆまぶり(ゆ守り)ちゅう人が ええあんばいに見つかってなえ。水が来んようになるちゅうと「せぐ物持って来い」なんてって いいつぎよこさして 行ったもんじゃなえ。おらの辺は ゆの尻やむんで 水は無いわね。「気に入らにゃ しやないで 田んぼしょって越していくさ」てって笑ったことやわね』
 現在では この用水の受益者二百五十人程が総出で苗代作りの前の頃か 田植えの前の時分に 年に一ぺんずつゆらざえをしている。多人数なので 十時頃にはもう 終るが 出不足は 百五十円である。 中村 八幡神社境内を横切っていくのも 第一用水とよばれている。

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たいしょうまち 大正町
 しも町の矢野書店の西から南へ通る町筋が大正町であった。大正年代に町になったので大正町である。
 大正の年号は易経にある「大亭以正 天之道也」からとたものである。今は国道十九号へぬけているが以前は行きどまりになっており 中央座とよぶ 旭座のように大きい芝居小屋であった。目玉の松ちゃんの忍術の活動写真がかかったりした。
 大正十一年四月大井に県立恵那中学校が設立されたのに対して 同じ大正十一年五月二十二日町立中津商業学校が開校式をあげ 中津小学校を仮校舎として授業を開校した 現在第二中学校になっている新校舎に移ったのは大正十三年四月であった。この中学校商業学校問題で 町民大会が持たれたりしたのもこの中央座であったが 大正年代に焼失のあと再建されなかった。

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だいみょうじん 大明神
 茶屋坂の東の辺が 大明神である。このあたりに祀ってあった 諏訪大明神が武田の兵火に焼け 後に大明神の名だけが残ったのである。(今トンネルの名に大明神がつけられている)

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だいらばやし
 松田の下の方 平な林があったのでこの名がある。ひの木の大木を船の帆柱にといって伐り出していったのが、大正の終りから昭和の始めにかけてのことであった。その頃にはまだ猿がよく出て来て、はざにとまって米をしごいて喰っていることがあった。この中の老猿の一匹をぼっていき 玉蔵でしとめたこともあったという。
 戦時中は燃料にする松根油をとるために松の根を堀った。戦後開墾が進むと このあたりからは数多くの縄文式の土器や石器が採集された。

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たからまち 田柄町
 田柄村にマルハチ間杢右衛門氏の借家が 多く立ちならんでおったが 以前は田であったので 田から町になったので 田柄町である。
 上田のアパートの辺に蚕種検定場があり 日露戦争の頃 その検査助手に女の子がいった。産卵した蛾の 腹を 乳鉢ですりつぶして プレパラートにのせ顕徴鏡で見えるように用意するのである。十三才で十三銭 十五才で十五銭といった日給であった。

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たていし 立石
 小石塚スポーツセンターのむこうの東鉄バス停留所が 立石である。これは東鉄がここにバス停をおく時、弘法様の恵那中部七十一番札所の一メートルばかりの石が建っているので 名づけた全くの新しい地名である。
 旧姫栗小学校の校庭に人の背丈程の大きな石が、二本相対して立っている。運動場を整地する時に 石器なども出土しており これは縄文時代の人々が何かを祈るために立てたものであると考えられる。この後に椿山神社があり 信仰に関係のあったことを物語っている。土地の人はこの石が 木曾川まで続いていると伝えている。
 このように古代の人間は山 森 岩などの自然の中に神霊が宿っているものと考えた。岐阜市の北方に伊自良があるが これは山上の巨岩を拝した。「石占」いしうらないから来たものである。

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たちばなちょう 立花町
 花木町に縦についた町なので立花町。

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たなか 田中
 手賀野。加藤良久氏屋号。田の中であったから。郷倉がすぐ北方にあったことなどを考え合わせると この辺が手賀野村の中心であったからであろうか。

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ちゃやざか 茶屋坂
 寛文三年(一六六三)古橋源次郎が中仙道を今の高校の南を通る様に改修した後 この急坂の坂の頭に茶屋が設けられたため 寺坂とよんでいたこの坂を、茶屋坂とよぶようになったという。
 明治二十年代には坂の頭には「餅くめさ」など二三軒の茶屋があって 羽二重餅などを売っていた。
 坂の下には五六軒もの茶屋があり 湯舟茶屋とか湯舟沢茶屋とか呼ばれていた。これは湯舟沢の人たちが炭や薪を せいた につけて背負って中津の町へ売りに来て その帰りに必らずこの茶屋で休んだからであった。炭や薪の代金で 買って帰るものは 塩や冬ならぱ さんま いわし ぶりなどの塩漬けや 煮干しなど 夏場ならば みかきにしんや 棒だら 塩さばなどであった。
 朝六時から七時頃には もう中津へつく程に早く来た人々は 売買をすましてこの茶屋の一杯の酒にその疲れをいやし 弁当をとるのを何よりの楽しみとした。小鳥 鯉 うなぎなど季節の料理に舌つづみを打ち、にしん あげ とうふ さば 野菜などの煮付に箸を動かすのであった。
 湯舟沢村の庄屋であった島田千尋氏所蔵の古文書の中に 安政六年安政の大獄の行なわれた年で 翌年大老井伊直弼が桜田門外に刺された──八月伊勢神宮御遷宮の材木の下見に来た 伊勢及福島からの役人接待のため中津川から買物をした記録が残っている。その時の買物は 正喜撰(お茶) かわたけ 有のみ(梨のこと)、ざっこ かんぴょう かつおぶし 上菓子、こうじみそ するめ であった。

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ちょっかいどう 直海島
 近江絹糸の辺が 直海島である。恐らくこれは直街道であろう。奈良 平安の昔 東山道の交通が行なわれていた時代 駒場の坂本駅を出た人馬は 中津川を越すと 今の宮町のように まっすぐに東に進んだものであろうか。寛文五年(一六六五)ここにあった東円寺が現在位置に移転したという。恵那神社誌には「直海島に東円寺の地名残れり」とある。
 天保の初め 勝野吉兵衛は 繭を信州地方より買い入れ 工場を設けず 出枠とよんで 工女各目の家で糸にひかせた。歴史の教科書にいう 問屋制家内工業である。
 やがて明治六年 始めてここに 工場を設け岐阜県ではじめて器械製糸をはじめ 以後着々とその規模を拡張し 同三十一年合名会社 信勝社(信州に勝つの意)をつくったが 大正三年には職工数千八百を数えた。このころには 今の市役所の辺に二工場、税務署の辺に三工場があった。
 時移り盛大を誇った勝野も、遂に昭和六年には工場を売却し、昭和八年には岡徳織布となり 昭和十四年には近江絹糸となったのである。

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つかひら
 国体卓球会場となった スポーツセンターを西へおりた辺に つかひらの名か残っている。更に田んぼを越して西が かまひらである。これはここにつか 古墳と、室町時代のかまあとがあるので生れた名である。
 古墳の位置は 旧中仙道小石塚の坂西麓の小道を、南ヘニ百メートル 程入ってから 二十メートルばかり左手へ入った、ひの木の中の斜面 スポーツセンターから まっすぐ西へおりた辺である。「あそこにも 火塚がある。金の壼でも入っとるかもしれんで堀ってみよまい」「もしかして 親王様の墓なら どえらいお金か爵位が下がるげな」というようなことで 明治の末年千旦林の十人程の青年がより集って掘り始めた。口元の方には座りの悪い須恵器が多くあり 奥の方には殆ど土になってしまった直刀が一本あった。しかしこの発掘はいつか警察の知る所となり 全員茄子川の駐在所へ呼び出され 国道に並ばされて叱られた。「許可なしで墳墓を発くなどは もっての外だ。懲役だ。掘った物は皆出せ」と大層おどされて 幸脇富吉さんの倉に蔵ってあった須恵器も全部没収された。これらの出土品は 全部東京帝国大学へ送られたということであるが 現在では全然不明である。
 昭和の始めごろ 井口氏の軒に南無妙法蓮華経の碑を建てた時 この古墳の蓋石をもって来て使用した。 昭和四十二年七月 中津川市史編集委員会の手によって びんのわれ 空きかん せと物のかけなど がらくたすて場になっていた 石室の内部が清掃された。
 その結果 高坏 高坏蓋 平瓶 盤の四点が発堀された 石室奥の鏡岩が一枚岩である所から 七世紀以降のものと推定される。

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つけち 付知
 尾張藩太田の代官所へ 年貢を持って行く時七戸分十八俵ばかりで あまりにも少なかったので 加子母の年責につけて持っていった。その時 村の名をきかれて「ない」と答えたため「それでは 加子母村の知行に附けていくから 附知村とせよ」ということで付知村と名づけられた。だから古文書には附知村とある。
 なお三代将軍家光の時に作られた正保郷帳による石高は 加子母村一一八九石五升 付知村二八四石八升である。

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つしまちょう 津島町
 津島神社があるので 津島神社は素盞雄命をまつる、寛文三年(一六六三)の棟札があるというが それ以前のことは不明である。社前の漱水の年号は元禄甲戊(一六九四)である。
 寛文以前は松源寺住職が社僧として奉仕したが その後は修験者が奉仕し 明治六年からは恵那神社神職の兼務する所となった。
 祭日は例年陰暦の六月十五日であったが 明治四十三年陰暦の廃止と共に七月二十一日に改められた。所がこの二十一日は 学童が授業に差支えること 盆が終って間もないこと 田の草の最中であることなど、不都合が多いため 戦後になって 尾張津島神社に問い合わせたりした上 現在の八月十五日に変更したものである。
 わいしよの提灯行列が始まったのは 明治二十年頃からで その頃はけんか祭と呼ばれる程 激しいけんかをしたものという。

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つと 津戸

 西山にも苗木にも津戸がある。津は港 わたし場渡船場の意である。とはところのつづまったものであろう。津戸の辺は木曾川の流れが 割とゆるやかになった所であったという。
 恵那郡史に 日本武尊の臣 吉備武彦が木曾川を亘埋(わたり)で越した とあるのは この津戸であろうという。

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つめたがわ ぬるがわ 冷川 温川
 湯舟沢のつめた川 ぬる川というのは 川水の温度の差より名づけられたものである。即ち冷川は中途で、がさがさの土砂崩壊地を通過する時に 全部しみこんで しまって地下水となり 冷えてしまい 再び地表面に出て来た時には ぬる川と比べて約十度の差を持つようになっているのである。

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てがの 手賀野
 もとの形は あてら野であったのが 手賀野 手金野に、かわったという。
 あては一本の材木の日を受けぬ側 即ち成長が悪くて節くれ立ち 加工困難な部分のことである。これから物のよくないのを皆あてといい 大工の間などでは不美人のことを指して、あて、といったという。
 しかし語の起りは単にこちらから見えぬ側、あちらの転じたもので、あてらのらは名詞を確立するための、一種の語尾である。従ってあてらは荒れた地 日陰の野を意味している。
 今から約四百年前 織田信長などが活躍していた天正年中に駒場村から分れて村を立てたのであった。角田すみだという所 津島神社の前の辺から引越した 岡本惣右衛門(岡本伯氏祖)という人が庄屋をつとめた。
 江戸時代の領主は 中津川村と同じく木曾福島の山村甚兵衛であった。高は四百四十六石五斗四升で、田三十町四反九畝二十歩 畑九町二反一畝 合わせて三十九町七反二十歩 寛政年間(一七九〇年代)には戸数六十七戸、男女三百四十七人、馬四十二足。明治八年には八十戸、三百九十六人であったが 明治三十年中津町に合併当時は 九十六戸であった。
 一説には松源寺の前の辺に円通寺という大きな寺があったので てらの からてがのになったという。円通寺は今でも字名として名をとどめており、松源寺の山号は円通山である。
 手賀野には三十六屋敷という古くからの家があった、諏訪神社で祭典があった時 拝殿へ昇って 御神酒を飲むことの出来るのは この三十六屋敷の人だけであとの人は酒わかしなどの雑用をするだけであった。明治になり四民平等の世の中にもなった時 下におった人々が相談して「たあけらしいで持ってくこた おこまい」とわかした酒はそこで皆で飲むことにしてしまった。いつまで待っても酒の来ぬ拝殿の三十六屋敷の人々は これには閉口してしまい 以来みんなで一緒にのむことになったという。
 昭和三十年頃 三十六屋敷の人々が集って 先祖の霊を祀ることに話がまとまり松源寺で供養をした。松源寺にある名薄によると 分れた人も含めて次の四十四氏である。( )の中は当主。。
安藤訓之 安藤又衛(敬介) 原孫三郎 宮川梅吉 吉田作次郎(静雄) 市川元次郎(志賀) 松源寺 鳴海護 小木曾輝 広畑森平 佐々木利一 成木喜次郎(保) 川上峯三(只三) 小木曾新重(志貴雄) 加藤九市 勝秀雄(美喜雄) 川上茂太郎 吉田聡 川上房次郎(正平) 奥村栄一 桂川元一 原政敏 鳴海長作(英一) 横山好太郎 原軍次   成木孫一 加藤代助(賢一) 加藤菊 荻野力次 遠山一太郎 小木曾栄助 川上文雄 林若次郎 加藤孝(良久)  原改次郎(優一) 吉村徳次郎(覚) 堀尾勝 宮田建哉 近藤栄次郎(栄太郎) 林仙蔵(和道) 奥村繁雄 岡本伯 田中国介 箕川真一
この中 鳴海護氏はこむかい 林若次郎氏ははたけだ 林和道氏はしたやしきの屋号がある。
 三十六屋敷ではないが 新田休蔵氏は ひやけ。

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てらやしき 寺屋敷
 恵那神社前を寺屋敷という。里人の伝うる所によると 原五郎兵衛氏の先祖が 大阪夏の陣のあと ここに逃れてきて 土地を拓き寺を建てたからである。今も池のあとが残っている。この寺が宗泉寺であるが、川上では檀家が少なくて寺の維持に困るので 中村へ越した。それで今も原氏の位牌は宗泉寺本尊の横に安置すると。
 恵那神社誌によると「禅宗 曹洞派にして三河国西尾町 盛岩寺の末寺」で「累代恵那神社の社僧たりしが元和の頃、川上村原五兵衛氏 地頭山村用斎公と計り移転建立せり」

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てんのはら 天王原
 津島神社から南西へかけての水田地帯を 天王原という。津島頭天王を祀った原だから天王原。
 牛頭天王は薬師如来の化身で、お釈迦様のために 建立された紙園精舎という寺の 守護神である。

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でんばね
 山の上 出ばったねずる。つづいた尾根のこと。

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てんまちょう 伝馬町
 てんまは鎌倉時代以後宿駅に備えて 幕府や領主の公用に借りた馬 宿継ぎの馬のことである。
 しかし中津の伝馬町は江戸時代の宿駅の伝馬とは何の関係もない。
 中央線は一旦有事の際 海岸に近い東海道線が砲撃寸断された時のことを考え 軍事上の要請をも含めて、中央高地の谷を縫って敷設されたものであるが 名古屋よりここ中津川まで開通したのは、明治三十五年(一九〇二)十二月二十日のことであった。その後東西よりする工事が進行して中央線が全通するのは 明治四十四年五月一日であり 同年六月一日をもって それまでの中津駅を中津川駅と改称したのであった。
 鉄道の開通に伴って駅に近いこの町には 馬 馬車が多く集まり貨物の運送に当たるようになった。これは昔にすれば伝馬に当るということで伝馬町の名が起こったという。

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といしばら
 手賀野 東原 本州への曲りの辺のことを 東原のいり名(一部の名)として といしばら としばら としがはな 等と呼ぶのは多分 といがはなの転訛したものであろう。井水が第一番にかかる所 樋が端であると考えられるが 今はこの名も殆ど使われなくなったようである。

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とうさんどう 東山道
 六四五年のクーデターに成功し天皇の絶対的地位を確立した 中大兄皇子 藤原鎌足らの新政府は 始めて年号を大化と定め諸の改革を行なった。
 地方行政においては部の周辺を畿内とし 地方を七道に分かった。即ち西海道(九州)、南海道(四国及和歌山県)、山陽道 山陰道 北陸道 東海道及び東山道である。東山道は都より東に行く山中の道 地方の意で 近江 美濃 飛騨 信濃 上野(群馬県) 下野(栃木県)と東北地方全部が入っていた。
 国のまん中を通る 山の中の道であるので中山道後に中仙道となり 更に現在の中央線 中央道と発展していくのである。
 なお 北海道の名がつけられるのは 明治二年で、それまで蝦夷地とよんでいたのを 松浦武四郎という三重県出身の探険家がつけたものである。

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とおやま 遠山
 恵那山は遠く西濃方面からも望み見ることが出来るので、遠山といいならわし 恵那郡のことを遠山庄とよんだ。
 源頼朝が伊豆に挙兵し、山木判官兼隆の館に夜討をかけた時 加藤景廉は兼隆の首級をあげ 武功 抜群であった。やがて文治元年(一一八五)諸国に守護地頭がおかれた時、加藤景兼はその功を賞せられて 遠山庄の地頭に補せられたのであった。一説には建久六年(一一九五)である。この加藤氏が遠山庄岩村にすみ 東濃の一大勢力となるのである。苗木城主遠山氏もこの景廉の子孫である。
 恵那山にはこの外、土岐多治見方面より見る時いの字の形のはげがあるので、いの字山。山頂に野熊池があるので野熊山。恵那郡は横長き郡であるため 又はえながたけのの聞き誤りより横長獄。国境の山で風が横く吹くので風越山。大吉蘇山 御嶽(みたけ)、権現山、神の神坂などの異名があるという。

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とくのじょう 督の城 徳の城
 恵下の奥 中津川城ともいう。本陣市岡氏の祖がきづいたという。岩村の支城。監督の役所の意より督の城というと。

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とちのき
 手賀野から根の上へ上って行く途中大きな栃の木がある。沢の水持ちを、よくするために阿寺城のある頃、沢山植えたものという。この辺には小さいさんしょう魚がいる。

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とっぱら 徳原
 昭和四年 御大典の記念に後藤卯六氏建立の碑によれば、ここの観音様由来は次の通りである。
 後藤氏の先祖である治郎平という人が、元禄十六年(一七〇三)夏この洞へ二頭の馬をひいて草刈に来ていた所 大地震地崩れがあって馬が生き埋めとなった。その後 夜毎の夢枕に立つので ここに馬頭観世音を祀った。時に亭保三年(一七一八)七月のことである。明治よりは 四月十七日を祭日とするようになった。

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