か行

 

かおれ
川上

かいしょざわ
会所沢

かくめいさま
覚明様

かさぎ
笠置

かさや

かじしま

かとうやしき
加藤屋敷

かまひら
窯平

かみあがた
上県

かみこうば
紙工場

かみじゅく
上宿

かみや

からさわ

きそがわ
木曾川

きたの
北野

きつねいわ
狐岩

きねづか
狐塚

ぎふ
岐阜

きょうでん
経田・京田

ぎょくぞうばし
玉蔵橋

くつうちば

くらいわ
鞍岩

くらまえちょう
倉前町

くろいさわ
黒井沢

くろちがほら
黒血が洞

けいばじょう
競馬場

けろくぼん
毛呂窪

こいしづか
小石塚

こうせい
更正

こうしん
庚申

こでのき

ごとまき
五斗蒔き

この
子野

こまんば
駒場

こまがのがっこう
駒賀野学校

ごんねざか

 

 

 

 










かおれ 川上
 万葉集に
 みよしのの 象山のまの 木ぬれには
  ここだも騒ぐ 鳥の声かも
という山部赤人の歌がのっている。この木ぬれはこずえのことである。今でも木のうらっぽというが、古くはこずえのことを、うらえ、うれ、といった。川の上の方は即ち川のうれ、かわうれ、かおれである。そして川の上流ということで、川上の字をあてるようになった。木曾の三浦ダムのみうれもこの用例で水のうれであろう。
川があの辺でおれ曲っているので、川折れ、かおれである。という一説もある。
川上十八屋敷といって、古い家は十八軒というが寛政の頃は、四十戸 男女二百三十三人 馬二十七匹の村で 庄屋は滝ヶ沢の彦十郎であった。
高は十八石一斗三升七合

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かいしょざわ 会所沢
 手賀野方面から来た道と、中仙道が会う沢だから会所沢。東山道の昔、坂本駅の会所(事務を司る所)があったというのは、駅は駒場の下町であるから一寸離れすぎであろう。
 会所沢堤が出来たのは大正末年。

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かくめいさま 覚明様
 子野 槇坂の上(まきの林があったので)旧中仙道西側の覚明様というのは覚明行者を祀るからである。覚明行者は尾張の人で、諸国を遍歴し、恵那山にも多年参籠修行した人である。
 後に木曾御嶽山を開こうとしてここを通った時、槇坂屋という茶屋に泊った。主人左次兵衛を始め、家中みんなでもてなしたので 感謝の印として、杖、湯呑、茶碗、珠数及びちんちん石を与えて出発した 時に天明五年(一七八五)五月五日の朝であった。
 それから御嶽山に登り、通路を開き頂上で立往生をとげたのであるが、この御嶽開山との縁を記念して、この茶屋の位置に覚明霊神を祀ったのである。左次兵衛氏の後は古根氏であるが、現在では上金の新田へ越した。
 又町へ近い方がお参りが多かろうとて、昭和の初め頃東円寺の近くへ覚明様を祀ったので、そこへ杖や珠数、などを移した。

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かさぎ 笠置 笠置山の写真があるページへリンク
 「笠置晴れて恵那ぐもり」という。笠置山が晴れていてよく見える時は 恵那山に雲がかかっていても好い天気になるという天気予報である。西から移っていく日本の天気を中津川に合わせて、ずばりといい現わしていて面白い。
 笠を置いた形から笠置山である。
 第六十五代 花山天皇が法王になられて後 東国巡遊の折 京都に眺むる笠置山にさも似たり と仰せられてから笠置山になった。

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かさや
 手賀野。松源寺のそばの青木氏は木曾から来た人で、傘を作りようらしたで かさや。

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かじしま
 本洲製紙から手賀野方面へわたる橋が かじ島橋である。どば(材木置場)メタリックペーパーの工場の辺は中津川の中の島でかじ島であった。かじかのなく島なのでかじ島となったのかもしれない。水田があったことは「明治四年に三石七斗六升七合の田が川欠皆流」されたという記録から分る。
 よう へぼが巣をくっており、川よもぎの葉をほいといて竹の中へ入れ、へぼの巣をとる時うやいた。

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かとうやしき 加藤屋敷
 阿寺城主の加藤氏の居った屋敷があったということですが、「そういう はなしゃ 聞いとらんがなえ」

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かまひら 窯平
 西山の神谷農園の後の斜面を かまひら というのはこの一帯に焼物のかまがあったからである。奥西山へ越す峠に近い小祠の辺は よく風が吹ぎ通すので風吹の神様と呼んでいるが 焼物を作った工人の屋敷があったとて かまやしき ともよんでいる。
 県営西山地区開拓パイロット事業着工前の調査によると 神谷農園裏の南斜面に四ヶ所と約三百メートル北方の東斜面に一ヶ所に、各二基 計十基が確認されている。
 出士品は大型の茶碗で、いと底にもみがらの跡がついているので もみがら焼 一名行基焼とも呼ぱれる山茶碗 一名大平鉢ともよばれる 直径三十センチ位のすりばち形の片口 直径七十センチ 高さ一メートル程の大型の水かめである。
 神谷斜面の東端のものは、昭和四十年八月十一日の調査によると出土品は、全部片口と水かめぱかりであった。
 かまの大きさ形状は正確には不明であるが、出土品立地よりみて先年 中洗井で発堀された窯と殆ど同じで斜面に築かれた、とっくり型の窯で、最大巾二・五メートル 全長十メートル前後のものと推定される。時代は鎌倉から室町の始め頃 六百年位前のものであろう。
 出土品の中に美しい緑色の上薬がかかっているのは灰釉といい、松を中心にして三昼夜以上も焚き続けるので、その灰が焼物の上へ落ち、千三百度にも上る熱のためにとけて上薬になったものである。
 荒川豊蔵さんの話によると、粘土は附近のものという。ろくろは使用しているが、えんごろうは使用していないので、四つも五つも実ね餅にくっついてしまった片口が出土している。えんごろう(焼く時のケース)を使用するのは秀吉の朝鮮戦争の後である。
 明治の中頃まで一軒の家もなかった西山に六百年も眠っていた窯跡も、北方の二基を除きブルドーザーの轟音にめくり起こされ、又忽ちにしてかきまぜられ埋められてしまった。そしてあたりの景観は全く一変してしまった。

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かみあがた 上県
 中津川市で最も古い神社は、延喜式という九二七年に完成した本にのっている、中川神社、恵那神社、千旦林の八幡神社の三社である。八幡神社の南には、今は水田の石垣に多少のおもかげを留めるのみであるが、横打 原氏の横に二基の古墳があった。
 このあたりの地名に、かみあがたがある。あがたは領田 あがちだのつづまったもので、上代諸国にあった朝廷の耕地をよんだことばである。この古墳を造営した有力者は、自己の権威を増すために自らの領地を朝廷の耕地であるごとく振舞ったものであろうか。
 あがたは上り田で、水田より高く上った田、即ち畑のことである。

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かみこうば 紙工場
 中村 明治三十年代、七人の出資でここに中津製紙合名会社が建てられて、四国から職人をよび藁から紙を作ったので紙工場という しかし製品が売れなかったので間もなくつぶれた。この工楊のつぶれかけた時、壁に落書がしてあった。
 この工場とかけて何ととく。貧乏人の嫁入ととく。心は長持なし。

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かみじゅく 上宿
 駒揚の宿場の上に位置するので上宿。これに対して下の段にある町なのでしたまちである。
 上宿は水の乏しい所で、水田は合わせて三反歩程しかなかった。
 水田が拓けるのは明治三十一年、手賀野第一用水を分岐して上原を径、上宿に達する支線水路を開き、同三十三年四月に成功してからである。工費は三千八百余円で、此の記念碑は手賀野公園に建っている。
 この時上原を通ったのでは、上原に水田が拓かれると水が不足して上宿までまわしてもらえんようになるので、上原と下の段の中腹を用水が通るようにと頼んだが、手賀野の地主たちに断られた「そんなら上原で水が取れんように、井水を深こう堀っとこまい」「そんなもなせぎやいっくら深こてもだちきゃへんに」といったことで現在のようになった。
 上宿が手賀野の地主へ出す水路年貢は三五俵であったが、農工銀行で借りて買い取ったものである。
 こうして用水は出来、水田は拓かれたが相変らず飲料水には不自由をし、数少ない井戸水をみんなで利用していた。
 かねて飲料水のことに心を砕いていた吉村磯太郎氏は、或る雪の日よそより早く雪の融けている所から清水を発見し、以後精力的に上宿に水道を作るべく奔走した。
  当時の町長間孔郎氏、助役辻麗次郎氏を動かすこと、水源地の土地を二斗の年貢でかりること、県庁へ一升びん二本の水を送って水質検査をしてもらうこと、駒場の公営事業費の中から三百円を出してもらって水源地から道路までの幹線を埋めること、あと各戸への配管の七百円の費用を作るために上宿水道組合(組合長 吉村磯太郎、委員 桃井菊次郎、長瀬角吉)を作って信用組合から借金をしたり、各戸から来て二升ずつ集めて売ったりすることなど、苦心に苦心を重ねた末、昭和十一年二月着工、五月完致をした。
 しかしこの時は、各戸への支線のパイプにセメントパイプを使用したため水圧でこわれて失敗。
 このため脱落者も出る中を屈せず、翌十二年春、その頃はまだ東京に一社しかなかった工場ヘ、エタニットパイプを注文してとり寄せ工事完成、十三年春、こでの木坂の頭までの配管を完了し、ここに上宿水道の完成を祝ったのである。中津川で最初の簡易水道であった。
 三十年が経過して市の上水道が、昭和四十二年には上宿にも引かれた。しかし今迄の水道もまだ使えるので、月八トンニ百円、メーター使用料三十円の最低料金で済んでいる所は、中津中で上宿だけだという。

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かみや
 手賀野、田中国介氏、紙をすいておったので紙屋。

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からさわ
 川上、中津川へ流れこむ辺では、水がもぐって川が空になるので。

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かんししよう 監視哨
 上金原の上の方、今の井戸氏のうちの所に 戦時中は対空監視哨がおかれていた。在郷軍人や青年団の中から選ばれた二十人が三交代で、夜となく昼となく二十四時間をぶっ通しで監視したのである。給料は出たる。各人は七倍の双眼鏡を持ち、監視塔には二十倍の固定脚の双眼鏡が備えつけられていた。この双眼鏡が得意で、記念写真などにも必らず持って写したものである。
 飛行機が通ると、敵味方の区別、戦闘機、爆撃機、偵察機といった機種、機数、高度、進行方向等を監視塔の上から伝声管で下へどなり、東海軍司令部へ直通になっていた警察電話を使ってすぐに連絡した。
 司令部からも味方の飛行機の動向、各務原から厚木へ何機向ったなどと連絡してくれた。
 ひまな時にはレコードに録音した爆音をきき、機種を聞き分ける訓練を重ねた。風があって飛行機の方向がはっきりしない時には、一間位の深さに堀った穴の中に入ってきくと、はっきりと識別することが出来た。
 国防の第一線だということで、国防婦人会が慰問に来てくれたこともあった。二十年の春、坂下や福岡の二つ森に焼夷爆弾が落された夜は、ここからもよくその閃光が見られた。この時は中津も危いというので、近江絹糸の女工さんが大勢この監視哨の下まで避難して来た。
 二十年の夏になると、応召出征で手不足になったために女子の監視隊員が選ばれ、五人が昼のうちだけ勤めるようになった。この監視哨も八月二十四日をもって解散となったのであった。
「解散してからもう二十年の余にもなるが、まんだあの辺を監視哨とよぶ人が多いですねえ」

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きそがわ 木曾川

 きというのは生娘、生糸、生酒というように天成のままのものを呼ぶことばである。そは麻の古語で身にそうの意である。古来この谷ではきのそが多くとれたために木曾川と呼ぶようになった。
 きそは崖、傾斜地のことで、けわしい谷はすべてきそという、険しい谷を流れるので木曾川である。
 古くは吉蘇、岐蘇、木襲、岐曾などの文字をみることができる。
 全長二三ニキロメートル、信濃、利根、北上につぐ本州第四の長流である。

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きたの 北野
 北野の野はどこをさすのであるか。これは恐らく中村に対して北方の村、北の村であったであろう。
古墳のあること、十世紀に作られた延喜式という本に中川神社の名があることからみて、北野村の開けたのは中津川として早い時期に属しているのであろう。
 明治末年の北野の戸数は六十五である。
 恵那市東野も 恐らく中心地大井の東の村であろう。

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きつねいわ 狐岩
 松田の狐岩は、大きいこの岩の下のくぼに、狐の巣があったからである。終戦当時でも、狐岩の近くの畑では、親狐の見ている所で狐の子が犬ころみたいにキャンキャンないてくるくって遊んで、赤土の土煙が立ったりしていた。「あれみてみ、遊んどるに」「ほんねほんね」ちって見とったねえ。

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きつねづか 狐塚
 古墳の横穴を利用して、狐が巣を作って出入りしたことはいくらもあったことで、鶴岡でも阿木の飯沼でも阿木の久須田でも、古墳のある所を狐塚と呼んでいる。手賀野、西校の南辺も狐塚である。
 米田川で大野武夫氏が須恵器のつきを拾われたこともあって古老に聞き合わせて みたが 古墳はなかったという。駒場ではあるが上宿の成木長七氏が 家の南約三百メートルの所で田譜請をした時 かめなどのかけらが多く出たというが 一片も残っていないので確かめる術はない。
「田地の近くに田の神を迎えて祭る祭り場が 狐塚でそこに狐が折々現れる」と一書にある。

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ぎふ 岐阜
 永禄十年(一五六七)、織田信長は斎藤氏を亡して井の口城に移ると、政秀寺の開山、沢彦和尚へ使を立てて迎えた。そして井の口を良い名に易える様に頼んだ。沢彦は、岐山、岐陽、岐阜の中でお好み次第にと答える。信長はそこで、みんなのいいやすい岐阜にしよう。縁起は良いかという。沢彦はいう。『周の文王が、岐山より起こって天下を定めた」という故事があります。この故に岐阜(阜はおか、土山の意)を選んだのです。殿も程なく天下の主となられるでしよう』と。信長公御機嫌斜ならず、名盆に黄金を積んで賜わった。これが俗にいう、岐阜命名の由来である。
 しかしこれより前、土岐氏が岐阜加納の革手城に居った時、岐蘇川の陽(きた)に位するとて革手城を岐陽といっていたようであるし、 また明応八年(一四九九)や天文四年(一五三五)の古文書にも岐阜の名が見える。
 かねて天下平定の意に燃える信長は、斎藤氏の代に井の口と称せられていたものを、岐阜と改称したと人心一新の目的でもって大々的にPRしたのであった。ついで、その朱印にも天下布武の文字を採用したのであった。
 明治四年七月、廃藩置県によって 美濃・飛騨両国には、笠松・高山二県の他、大垣・加納・岩村・郡上・苗木・今尾・高富・野村の八県がおかれ、名古屋・犬山・岡田の国外三県の管地を加えると都合十三県が設けられた。
 中津川・駒場・手賀野・落合は笠松県、苗木は勿論苗木県、阿木は岩村県、茄子川・千旦林は一部笠松県一部名古屋県であった。
 旧来の藩を県と衣替えしただけでは行政上不便であるので、明治四年十一月二十二日には美濃国内の諸県はすべて岐阜県に統一された。県庁は笠松で、県令は長谷部恕連であった。
 飛騨はこの時、筑摩県へ入ったが、明治九年八月二十一日この筑摩県が廃止された時、岐阜県へ入った。
 この時から現在の岐阜県の形が出来たのであった

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きょうでん 経田・京田
 「下実戸 元禄十五年(一六九七)五月水害の時、大水宗泉寺へ浸入し、お経が多く流された。経文の多く流れ来た所が経田」この恵那神社誌の記事によって二三の人に尋ねてみたが、この名を知る人はなかった。
 大岩のへんや、手賀野の中川橋と新中津川橋中間辺も、きよう田である。経田は続経料として寺へ寄附された田をいう。

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ぎょくぞうばし 玉蔵橋
 渡し舟にのみ頼っていた木曾川に橋がかけられ、飛騨街道に新時代を画したのは、明治三十年一月二十日附の玉蔵橋架橋費収支計算報告書株主名人表が残されているので、明治二十九年のことであろう。有料橋であった。
 木曾川の川巾の最も狭い所を選んで、長さ四十五間巾二間半のトラス式の橋がかけられたのである。工費一万五千円。このあたりの地名が玉蔵であったので命名された。尾州藩木曽材木大川狩要図に、玉蔵盗賊の用心を為すべき所とある。
 この橋の少し下流南岸に、やれとべ観音がある。家出人や、心中の下心ある男女が通りかかると「やれとべ やれとべ」とかけ声をかけてとび込ませ、決して生かして帰さなかった。これは江戸時代に切支丹信者が聖母マリア像を一諸に安置して、同じ観音様と偽称した崇りであるという。
 このやれとべ観音が呼んだか否か、明治の末頃この玉蔵は自殺の名所となり、時折りとび込む人があった。投身者は絶対に助からず、遺体も八百津の辺でやっと上る位であった。
 やがて大正十三年八月には木曾川に鉄橋が架せられ、その上を電車が走るようになったが、旧来の渡しは、岡田式という針金を引き渡して、それに頼る方式には変ったけれども相変らず続いて人を渡した。
 開業当時の北恵那鉄道の電車賃は、苗木迄二十二銭(現在は三十五円)福岡まで四十四銭(六十五円)下付知まで八十四銭(百二十円)である。これに対して渡し舟は一銭で人々に愛用されたのである。「北恵那の電車のない時分にや、飛騨の高山の方へ行く荷を馬車で がらがら引いたもんやなえ。俺は小栗屋の荷を引きよったもんやで、メリケン粉やから粉や砂糖なんぞを積んで加子母まで行って泊り、あけの日、下呂のこっちの竹原でむこうからくる荷物と交換して積み替えて来て、又加子母か付知で泊り、三日がかりで行って来よったねえ。年の暮、正月でもどる勝野の女工さんたを、荷物と一諸に、飛騒の高山まで乗せてったことがあるが、確か七日位かかって十五円もらったかしらん」
 降って昭和十年頃になっても、中津の十日市に出る苗木の子供たちは、電車に乗って小遺い銭を減らしてはと、渡しを利用して歩く者が多かったらしい。設楽氏が引越した昭和十四年にはまだ存続していたという。渡しがその姿を消すのは、支那事変の軍需産業によるインフレで電車利用が普通化してからである。
 六十年の才月は玉蔵の生命を全く使い果たし、新玉蔵橋の雄大な姿を現わさせた。工費一億三七五九万五千円昭和四十一年一月十九日の渡り初めである。渡り初めの主役を勤めた人は、苗木の今井兼之氏親子孫の三代であった。

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くつうちば
 「根の上へいくにや 長いうちいかんなんやっちゃでなえ」それで坂を登り切ると、馬の金靴を打ち直したのでそこが くつうち場。

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くらいわ 鞍岩
 西山、馬の鞍の形をした岩があるので、くら岩。

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くらまえちょう 倉前町
 年貢米の保存や、飢饉に備えるための共同倉庫、郷倉があったので倉前町とよぶ様になった。郷蔵は今も残存している。(とりこわされて駐車場)
 駒場村の郷倉は磯谷勇氏の辺にあった。
 手賀野村の郷倉は吉村覚氏の南すぐに建っていた。『五月になると蔵をあけて 田植米てって米の無い貧乏人に一俵つ 貸すわけじゃわなえ 秋じまいになるちゅうと 五升の利子をつけて積みこんだもんじゃなえ。
 郷倉は二階になっとって 下は米で 上にゃいかい長持の中に ええ でこのかしらがあったなえ 一つや二つやない大変あったぜも。「今日は蔵あけらっせるでいこまいかや」てっちゃあ でこ出いてもらって「芝居やらまいかや」なんてって遊んだもんじゃなえ。「この婆様 顔が光っとら 見よ」なんてなぶくって 遊んだもんじゃがなえ ええ衣裳も着とらしたが 鼠がかじっちまって しやないで「ねんねこ様の着物でも縫え」ちって ほかり出いとくれたが 錦のきれやで お守様の袋でも こしやえやいいわいと思って しまっといたで 箪笥のどっかに まんだあるらあ きっと。でこも みんながぶちゃらした訳でも なからずがどっかにあるか どうやしらんが。
 郷倉のいえのきに避病院へ行くお篭があってなえ。芝居に使うような ええやっちゃったぜも 入って遊ぶもんじゃで「どういう たあけがとうや。赤痢病の篭やなんぞに入って遊ぶ奴が あるもんかい」なんちって叱られてなえ そいでも その篭で大岩の避病院へ行って 死んどいでてから 遊ばんようになったがなえ。今でいや どうちこたないわねえ。毎日日光消毒したるもんやで』
 郷倉は後、松源寺へ移された由。

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くろいざわ 黒い沢
 中津川の上流の、ここには黒い石が多いの黒い沢。谷に白い石の多い方が白い沢。

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くろちがほら 黒血が洞
 本洲製紙のむかい側の洞に 黒血が洞がある。これは 天正二年(一五七四)武田勝頼の軍勢が東美濃に侵入し来たった際 勝に乗じて集まった武田勢に対して 用意の木石を投げ下ろし死傷が極めて多かったので 黒血が洞と呼ぶようになった。

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けいばじょう 競馬場
 商業から西へ入った所で競馬が行なわれたのは、昭和の始め五、六年間のことであった。苗木の城山から遠望すると、馬場の形が分るようである。前の市長 竹村寿吉氏の発案で、中切の成木亀左衛門氏らが奔走されたものであった。
「しかし田舎の百姓相手やもんやで、馬券の金かさも少のて勘定が合わず、閉鎖のやむなきに到ったもんやなえ」
 成木氏の物置の柱が緑色に塗ってあるのは、当時の馬券売り場を移築したものだからであり、こんな馬券売り場が何軒も建てられており、駒場の若い娘たちが馬巻の売り子に行った。
 この競馬場からは、縄文時代の石器や、古墳時代の土師器などが出土しているので、ここで古代人が生活しておったことが分かる。競馬場のうち商業に近い九二四五坪は、商業PTAの手によって約千三百万円の予算でもって買収整地され、昭和四十二年九月四日グランドびらきが行なわれた。現在の所東濃地方唯一の四百メートルのトラックである。

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けろくぼ 毛呂窪
 大井のダムの下へ北の方から流れこむ川が和田川であるが、この川沿いに泉があった。雌鹿がここへ来ては可愛いいバンビちゃんを育てておった。即ち鹿の母がいつもいたので牝鹿母である。今でも鹿の湯という冷泉があるのはその証拠である。
 多くの窪地があるということで、はじめは諸窪であった。古文書にもそう書いたものがある。所が発音だけを合わせて毛呂窪とかくうちに、誰かが誤ってけろくぼと読み、遂にけろくぼになってしまった。

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こいしづか 小石塚
 スポーツセンターの北の辺が小石塚である。塚は多くの場合村境に築かれた。これは塚の祭が、虫や悪霊などの外敵の侵犯を防ぐことを目的としていた為である。小石塚は現存しないのでどこにあったか不明である。
 村境にあるため、旅に出る人が、こいしい恋しいとて、振り返り振り返り別れていくので、こいしい塚の転である。
 明治まではこの峠に、たてばの茶屋があった。

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こうせい 更正
 現在の西ケ丘町・山手町・大平・こしようの踏切から尼寺、西山への道の西側、もとの下後田が更生であった。
 昭和の始め頃、ここの住民はよそから入植した人々で、その殆どが小作人で暮らしが苦しく、その日その日の賃取りかせぎで喰っていく人が多かった。勿論当時は一岳も長多喜もなく、桃山は全部で九軒であった。
 若冠二十四才の若さでこの部落長になったのが小倉三郎氏であった。小倉氏は何とかこの苦しい部落を更生させて豊かな部落にしようと心を砕いた。班毎に共同作業を行なうことを考えたり、貯金を少しでもするようにすすめたり、根の上へ分村しようと考えたりした。根の上では、開墾地に笹を肥料にして寒冷野菜や馬鈴署を作ることを考え、実際に今のバス停の辺を堀った。しかしこれは結局実現に到らなかった。
 更生なんて出来るこっちゃない、名前負けするでやめとけといって忠告する人もあったが、南を受けた水のある土地であり、駅にも近いので百姓でも住宅地でも工場でも、必らず発展するという小倉氏の熱意に更生という部落名が生れたのであった。

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こうしん 庚申
 北野、庚申さまがまつってあるので。
 昔の人は世の中のもとになるものを、木火土金水、きひつかみ、とき決めこれに陽と陰、兄と弟、えとがあると考えた。これが甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干である。
これを、ね(子)うし(丑)とら(寅)などの十二支と結びつけ、きのえね(甲子)とか、かのえさる(庚申)とかいった。甲子の年に(大正十三年)に建てられたので甲子園である。数え年六十才を還暦というのは六十年たつと再び生れた年の干支に還るからである。
 さて庚中の晩にねてしまうと、身体の中にいる悪い虫が天に上っていって、天の神様に告げ口をするので悪いことが起ると考えられた。それで庚申の晩は、誰でもねてしまっては大変なので集って話をして、夜を明かした。これが庚申講、庚申信仰であるが、集まって相談しただけでもひどく罰せられた江戸時代では、この寄合って話するのが楽しいリクレーシヨンであった。
 庚申には字だけのもの、わるい虫らしいものをふんばったもの、わざわいを防ぐようにと、みざる いわざる きかざるの三猿のついたものなどがある。

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こでのき
 こでの木はなつめと親類で、くろうめもどき科の落葉喬木である。しょうがのような形の実がなるが、秋になって霜が降るようになると、ほぞおちする。子供たちは木をゆすって実を落して、喰うのを楽しみとしたという。牧野氏の植物図鑑では、けんぽなしで出ており、実の形が癲病患者の手のようなので、手ん棒梨が けんぽなし に訛したと説明している。坂の頭に大きなこでの木があったので、こでの木坂である。
 ここにはこでの木小女郎とよぱれる狐が棲んでおって、美しい娘に化けて出ては人をばかしたという。
 明治十三年、明治天皇御巡幸の際、駒場の二十才前後の青年十三人が出て奉仕をした。即ち新しい浴衣にメリヤスの股引、白足袋に身を固めた青年たちは、白毛の逞しきアラビヤ馬二頭のひく御馬車に、二筋の晒木綿をつけて、この坂を先導したのである。後を見ては恐れ多いとて、前ばかり見て 曲り角でも一心に引いたため、車が道から外れそうになった。別当が大音声で「しろうと」と叫ばれたので、青年達は何事ならんと一斉に振返った所、天皇はにっこりと笑っておられたという。
 この奉仕に対して、寛永通宝百枚を縄に通してしばったもの、即ち十銭の手当が支給された。この時支給された銭を、大野武夫氏はそのままの形で保存しておられる。
 昭和十年九月にはこの先駆を紀念して、上宿一里塚横に記念碑が建てられた。この時奉仕した十三人は次の人々であった。
 戸長 中村六右衛門(弘直氏祖父)  吉村茂吉(磯太郎氏舅)  設楽兼吉(俊介氏祖父) 大野安兵衛(武夫氏祖父) 三宅角蔵(豊一氏父) 小川右馬次郎     古根鎌太郎 磯谷鉄次郎(勇氏祖父) 本多友次郁 太田清十郎 大山孫兵衛(一男氏祖父) 石田弥太郎(勉氏父) 新田金之助(まり子氏祖父) 成木善助
 こでの木坂は麓の西尾氏上の曲り角の電柱から 坂の頭の道祖神の石橋までの垂直高は十ニメートル七十である。
 なお、坂の中途に『水車まで 箕をかむり行く 春の雨』の設楽牧童の句碑が建てられている。

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ごとまき 五斗蒔き
 中村 苗代に五斗の籾種を蒔いた程の広さの水田のある場所の意 昔は一反分について一斗ずつまいたので五反、大よそ二軒分の耕地。

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この 子野
 子供でも遊びにいくような小さい野で、子野という。このは日本中に最も多く分布する地名の一つである。開拓しやすい所につけられた地名である。江戸末期に十二戸五十人、明治二十年代に十七戸、大正十三年に三十二戸百四十五人であった。

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こまんば 駒場
 駒場を語るためには 千三百余年をさかのぼらねばならない。六四五年六月十二日の大クーデターに始まる大化の新政の一つに いわゆる駅伝の制がある。これは当時 畿内の中央政府と地方諸国の国府を結ぶ唯一の 交通通信連絡の機関であった。
 即ち都を起点として 各国府に連絡する国道を定め駅毎に駅馬(はゆま)を備え 各駅で馬を乗りつぐことによって 中央政府の命令を伝え 国司の報告を中央に送ったのである。
 国道は その重要度によって 大中小に分けられたが 都を出 近江 美濃 信濃 上野 下野をへて陸奥にいたる東山道は 中路に指定されておった。
 土岐(今の釜戸)大井(今の恵那)の駅を通り坂本の駅 次いで神坂峠の嶮を越えて信濃阿智駅 というのがこの辺りの順路であった。神坂峠は東山道中の最難所であり 坂本 阿智間は距離が普通の倍以上の四十キロ余もあった。
 この神坂越えの基地である坂本駅には ふつう百二十人の駅子が二百十五人いたし 普通は十頭の駅馬がその三倍の三十頭と定められていた。三十頭もの馬=駒の居る所が即ち駒場であった。そしてこれは神坂峠の向うの阿智駅に当る会地村駒場に呼応するものである。
 東山道坂本駅は果して駒場であるのか この問に対して先ず第一に頭におかなくてはならないのは当時の駅制である。天下の嶮 神坂峠をひかえた坂本駅には 駅長とこれに属する二百十五人の駅子 この駅子を提供し 駅の諸費用を弁ずるための駅田を耕作し、いろいろの労務に従事する駅戸 官吏 が乗りつぐに必要な三十頭の駅馬などが定められておった。
 峠を越す基地としては 少しでも峠に近い方が有利なのはいう迄もない。茄子川の坂本部落や 千旦林の八幡神社辺が古坂本駅に擬せられたこともあるが 大井駅に余りにも近く 神坂峠へは余りにも遠いために問題にならない。
 そこで次に峠に近い 湯舟沢 落合 上金をあげてみると上古 これらの地域に上記の多数の人馬を養うに足る耕地の存在をとても考え得ないのである。
 次に中村であるが 四つ目川の氾濫が多く、極めて不安定であり駅の位置としては無理である。
 そこで駒場が浮かび上ってくるのである。
1.駒場という地名が残っていること

2.耕地面積は充分にあり、おだやかな米田川が貫流していて水田耕作は容易であること。

3.曾我義三氏の軒から三宅郁夫氏角へかけて、駅には必ずつけた、ますがたが残っていること。

4.この道、即ち旧中仙道を境として南を大道上とよぶが、この大道というのが、東山道をさすと考えられること。

5.人間生活に不可欠な飲料水を考える時、曾我義三氏 軒の井戸が豊かな 湧き清水であること。

6.西校の南辺に駒の口の名が残っていること。等々より、駒場こそ古坂本駅址と推定されるのである。

 駒場村、江戸時代の領主は久々利の千村平右衛門で、高は七七二石、水田四八町一反四畝六歩、畑十三町八畝二十七歩である。宝暦七年(一七五七)寛政二年(一七九〇)三年、九年の四度の大火で駒場村の古記録はすべて消滅し去ったという。(それ以後の分はあってもよいが?)
 寛政年間に八十八戸 三九四人 馬五十一匹、明治八年には百十戸 五一八人、中津町に合併した明治三十年には百四十五戸であった。

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こまがのがっこう 駒賀野学校
 明治十三年七月(興風八十年によると十二年、恵那神社誌によると十三年)福昌寺を仮校舎として、興風第二校と称したが 明治十九年小学校令の公布に伴ない 福昌寺の西 佐々木氏の屋敷の位置に駒賀野小学校として独立した。
 「この学校が建った時、こびきじやか、そま(木を伐る人)じゃかにいきょった大工さが(宮川寅吉氏、川上祖衛氏の二人)一杯のんで
 手賀野駒場 合併して
 学校なんぞを建て増して
 ついては はっぴも染めまする
 肩には水仙 裾に波
 いかりという字を 染めこんで
 質においても流れやせん。
ちって唄ったわい、そりゃしゃれとったのい ちったが 字やなんざ一字も見えりや へなんだがなえ 覚えのええ人でなえ」 
 この駒賀野学校が中津尋常高等小学校に合併するのは、明治三十一年のことである。
 明治の世はなべて質素であったが「茄子のほぞを切干しにして、とっといて豆煮さっせるちゅう、こっちゃったがなえ」というのは、しまつで評判のうちであった。

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ごんねざか
 追分から津戸へ下る坂道をごんね坂という。昔この辺の山の持主が権右衛門という人だったので、ごんねもんの坂からごんね坂になった。このあたりも今はブルトーザーによって美しく整地された。

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