Last Update 2003/11/12


 

あ行

 

あいおいちょう
相生町

あいのね
間の根

あおき
青木

あきば
秋葉

あさひがおか
旭が丘

あせほざか

あづま
東・東国・吾妻・吾嬬

あらいえ
あらや

いしひろい
のひよも

いしやざか
石屋坂

いせじ
伊勢路

いちりづか
一里塚

いっしき
一色

いづみちょう
泉町

いぬがえり
犬帰り

いのうえ・いのした
井の上・井の下

うえがね
上金

うえだ うえぢ
上田・上地

うしがせ
牛ケ瀬

うしろだ
後田

うつつとうげ
内津峠

うばのふところ

うまおりだに

うめのき
梅の木

うわばら
上原

えげ
恵下

えなさん
恵那山

おいまきちょう
老槇町

おいわけ
追分

おおいわ
大岩

おおくご
大久後

おおさかや
ざんまい

おおぞれ

おおだお

おおたまち
太田町

おおつや
大津屋

おおなぎざわ

おおのまち
大野町

おおはげ

おおびよも
大日向

おおひら
大平・大峡

おかだ
岡田

おくりがみのね

おこし

おさき
尾崎

おしゃごじ

おちあい
落含

おとざか
音坂

おばと
尾鳩

おわり
尾張











あいおいちょう 相生町
 名古屋の相生町がいい町で気にいっていた 町の有力者菅井蠖氏が 相生町のようなよい所に発展するようにと祈って命名されたものである。

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あいのね 間の根
 あえば 饗庭は道饗祭 即ち邪神を祭って送り返す祭場。あえの田はその祭のための米を作る田。昔ここで神を祭ったことがあるだろうか。
 間の根からは先縄文時代のものかとも思われる石の槍みたいなもの ポイント や 縄文時代の土器や石器 古墳時代の土師器など発見されている。
 戦時中には中国民学校(現南小)の生徒たちが ここも開墾してさつまいもを作った。又グライダーの練習場もあった。グライダーは商業(現二中)でも農林(現西小)でも中国民学校(現南小)でも練習していた。

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あおき 青木
 青い木 即ち常緑樹が多かったので青木と名づけたのであろうか。
 駒場青木稲荷は古墳の様である 古墳にどういういきさつで稲荷様が祀られるようになったのかはよく分らないが 所々に例の見られるものである。中津高校南のお稲荷様も古墳である。青木稲荷古墳は、直径約六メートル 高さ約一、五メートルの小円墳である。
 上には最大で径七〇センチのひのきが十本と くさまきが三本生えている。真中のひのきは落雷によるものか、二メートル位の所で折れている。
 頂にある石の祠には、享保十七年(一七三二)の年号があり中には十字の剣を持って亀らしいものに乗った像があるが お不動様であろうか。。石段の上端の石柱に文化七年(一八一〇)灯篭は 向って右が天明二年壬寅(一七八二)左が寛政二年庚戊(一七九〇)である。
 青木稲荷は 人間の背丈程の一寸した祠があるだけであったが 中津川まで鉄道が開通した明治三十五年ごろ 駒場下町の 設楽俊介氏の前に住んで居った「まあ」さんという人が拝むと、狐がのりうつるという評判が立ってから 急にはやりだした。そして忽ちのうちに立派な拝殿が出来る、西の弘法様のある辺に後藤亀次郎氏が参詣人にごへいもちや菓子を売る店を出す お祭にはよそから来て奉納相撲をとるというぐわいであった。参詣人が絶えずお稲荷様に油揚を供えるので 駒場の子供達はこれを目当てに毎日集まり、作られている土俵で相撲をとっては腹を空らし 広場にならべてある根っ子や木の株の焚火で このあげを焼いてくうのが日課であった。
 その頃は東側の石段は まだなくて この坂を子供たちは福昌寺のおっさまの教えらっせる習字の時のいすを持って来て そりの代用品にしてすベったりした。

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あきば 秋葉
 手賀野公園に秋葉様がまつってある所から その下の辺を秋葉とよぶ様になった。公園の出来たのは昭和の初めのことで それまでは秋葉様とよんでいた。
 秋葉様は 中村の上の方にも祀ってあるが 火の神で 本家は静岡県にあり祭神は 火之迦具土神 である。江戸時代には腹いせのつけ火もあり 火事になれば 水鉄砲みたいな竜吐水位ではどうにもならず、人々は秋葉様を信仰して 火事にならぬよう拝んだ。火事があると代参といって代表を選んで秋葉本社へお参りすることもあった。
 このため 町の辻や 路傍には石灯篭や常夜灯が建てられ 各戸では お礼様を迎えてかまどの神として祀ったのである。

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あさひがおか 旭が丘
 高校の丘は中津川の町の東にあり 朝日の昇ってくる位置にあるので この名がつけられた。もとは天神山とよんでいた。
 茶屋坂の北の辺を旭町とよんだのも同義である。スポーツセンターの西の辺も 旭 であるがこれも坂本村の東部にあったからである。これは幸脇孫作氏の命名である。

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あせぼ坂
 川上。高い所に あせぼの木が沢山あったからである。汗が出る坂で あせ小坂という人があるが これは誤。

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あづま 東 東国 吾妻 吾嬬
 三、四世紀になって大和の朝廷が強力な力を持ってくると 天皇は四方に将軍を遣して 従わぬ者共を打ち平げた。その古代英雄の花形が日本武尊であった。やまとたけるのみこと とは「大和の勇者」という意味の名である。始めは別々に語り伝えられていた多くの大和の勇者による冒険談が 次第に一人の英雄の物語にまとめられ 最後に景行天皇の一皇子の悲劇的な生涯の伝記としてつくりあげられたものであろう。
 西の熊襲(くまそ)を征伐した日本武尊は、再び詔を奉じて東の蝦夷を伐たれた。先ず伊勢の神宮に参拝し尾張(愛知県)を経て駿河(静岡県)の賊を平らげ、ついで相模(神奈川県)から総の国(千葉県)へ、走り水の海(東京湾)を渡られた。古代の通路はこのように さがみから ふさの国へ渡るものであったから、陸路でいえば遠い房総半島の南方が上総 上方へ近い総の国 となったのである。
 所が走り水渡海の最中に 大暴風雨が起ったため尊の妃、弟橘姫は 竜神の怒を鎮めんとて 海に身を投じ給うた。かろうじて東岸に着くことを得た尊は関東一帯を平定され まだまつろわぬ信濃国(長野県)越の国(裏日本)へ向おうとして碓氷峠にかかられた。
 この時遙か東南の方を望み給い 妃、弟橘姫を偲び「吾妻はや」と歎き給うた。この故に東の国々を あづまと呼ぶようになったのである。

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あらいえ あらや
 手賀野であらいえ といえば はまいば安藤敬介氏の新家である安藤訓之氏。
 あらやといえば松源寺から分れた原軍次氏。
 松源寺位牌堂には「当寺関山桂岳和尚大禅師 寛文九(一六六九)己酉年四月廿七日」「創建当時通山和尚寛文十三(一六七三)癸丑年三月十日」の位牌があるが、この通山和尚の弟が原氏の祖原十兵衛である「泥中堅だ居士 元禄十五年(一七〇二)がこの十兵衛の墓である。
 懸軸にしてある「松源寺後主勧進帳 寛文三(一六六三)壬卯七月吉日」によると「五百文 駒場十兵衛」の記事がある。原氏の辺はこの当時は駒場村であり原氏南の土堤が村界の名残で お姫様が山村様へお嫁入りの時 化粧料としてこの駒場分をもらっていかれてから手賀野村になったという。
 なお「円通山松源寺殿潭心一澄居士 承応三(一六五四)甲午七月十二日」の墓が松源寺を現位置に移転した時の檀那 山村家家老 堀尾作左衛門尉のものである。

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いしひろいのひよも
 根の上の上へ登り切ってからの南斜面 馬が歩きよいようにと 石を拾ったので 石拾いのひよも。元来の地名というものは こうした農民の愛情溢るる命名によったものであった ので あろう。

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いしやざか 石屋坂
 江戸時代より前には 石屋とか かじや とかいったものは極めて数少い存在であったらしい。それで千旦林の八幡神社の辺には かじやがおったので鍛冶屋平とよばれている。今でも時折り金くそが出るという。
 駒場の石屋坂の頭の辺に石屋がおったのでこの坂を石屋坂とよぶようになった。磯谷勇氏裏のお薬師様小祠の辺に作りかけの五輪塔の一部が 今も多少残存しているのは石屋の名残である。
 坂の中途から津島神社参道を右へ曲って 上の平がとりでであるが いつの頃かこのあたりに とりでがあったのであろう。坂道の下には五輪塔が草にうずもれている。
 さて石屋坂には とりでのとうきち という大変悪い狐が出てよく人を化かした。紺ばんてん紺の股引、豆しぼりの手拭でねじ鉢巻をした、大工のいい男に化けて出たという。祝言の御馳走や あげなどを持って通るといつの間にか取られてしまっていた。七十年ばかり前でさえ『坂の中途で まいまい まいまい しとらっせれるもんやで 「お前様 どうやらっせれたよ。」ときくちゅうと「川が流れとって越せん。」ちって おらっせれたげなぜも。』 坂の中途の馬頭観音は向って右から明治三十七年(一九〇四)文化三年(一八〇六)南無阿弥陀仏が文化十三年である。
 坂の下の国鉄バス車庫入口西の電柱から 国道道路面までの高さは十五、五メートルである。

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いせじ 伊勢路
 中津高校のグランドの東を 北へ進む狭い道を いせじと よんでいる。いせじは即ち伊勢路で伊勢参宮道路である。
 旧中仙道 大井の槇ヶ根トンネルの上辺に大きな石の道標があって 上部の鳥居の中に大神宮の文字があり その下に「右西京大阪 左伊勢名古屋」と刻られている。信州方面 中津川辺の人々の伊勢参宮道路は中仙道であり この道標から した街道 と呼ばれる名古屋への道を通ったのである。
 東海銀行と長瀬薬局の間の道を北へ入り 東へ曲って 十六銀行と、うなぎの山品屋の間へ出 緑町を横断して妙見町を通り 可知医院と伊藤鋸店の間へ出て白山町を渡りやきに のクリー二ングの所を裏へ抜け 新しくつけかえられた十九号に沿って 高校の岡 清見屋の鳥屋の麓をまわり 今は土塁のみを残す 昔のつたかんの火薬庫(昭和三六年西山へ引引越) 高校のグランドの東側を南行 中仙道に合するのが 古い中仙道 伊勢参りの道であった。
 里の古老は現在でも「この道は 木曾義仲が通ったちゆうこっちやなも。
 うそか本当か知らんが。」と伝えている。
 寛文三年(一六六三)古橋源次郎が 丹羽紙店の附近にあった「東西十七間 南北八間の境内を持った、十王堂。」という寺を 中村の宗泉寺に移し新町から一直線に進む道を開いたのである。この賞として古橋氏は 旧道路の敷地を全部賜わったという。
 この一直線の新道に移って三百年。いせじの名は上金の一部を除いて すべて忘れられたのである。

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いちりづか 一里塚
 江戸末期の狂歌の作者として有名な蜀山人の紀行文に「駅を出て寺坂(今の茶屋坂)というを登る。右に小社(稲荷社)あり。人家一戸あり。名物なにわ餅といえる札を出せり。わびしきさまなれば味わうに堪えざるべし。左右共に畑のある所を行くに右に中津川泉御番所あり。本家お六櫛をひさぐ者多し。いづれが本家という事を知らず。坂を下りて板橋を渡る(地蔵堂川)小流なれど河原に石多し松の並木の元を行くに人家あり。一里塚を経て与坂という坂をのぼる。」とある。
 泉御番所は 高校から百五十メートル程東 旧中仙道の北側にあった。尾張の殿様のおいたもので 木曾の山林より出す白木の改め番所である。元は落合の与坂にあったものを享和三年(一八〇三)この地に移したものである。現在でも井戸が残っているのであるが、井戸の上が川上氏の薪小屋になっているため 直接は見えない。昭和の始め頃までは この六間半程の井戸のほかには この辺には井戸はなかった由である。
 お六櫛は 木曾海道藪原名物のつげの櫛て 妻篭のお六という女が作り始めたものであるが 白木改めの関係で材料が入手しやすかったものであろうか。
 道に松の並木を植えるように なったのは 信長の時からで 上古は飢えた時食べられるようにと 実のなるものを植えたという。松並木は終戦後まで 会所沢の可知氏の横に一本残っていた。
 一里塚は旅人の目安になるように 一里(四キロ)ごとに 道の両側に塚を築いたものである。神坂の新茶屋ーー藤村の 是より木曾路の碑 送られつ送りつ果は木曾の秋 の芭蕉句碑などがある。子野 上宿 三津屋などにあった。塚が残っているのは 新茶屋と上宿だけであるが 上宿も南側の分は消滅しており北側の分だけである。これは昭和九年当時の助役であった辻麗次郎氏らの力により 崩れていたものを復旧したものである。
 「子野一里塚の右に えの木二本 左に一本。」と古書にある。
 三代将軍家光の時 土井大炊頭利勝が 並木に松が植えてあるが 一里塚はどうしましょう とお伺を立てた所「余の木(外の木)にいたせ。」といわれたのを大炊頭は老年で耳が遠かったため、えの木と聞き誤り一里塚にえの木を植えるようになったものであるという。
 辻麗次郎氏大正十三年十二月一日 県より派遣されて中津町助役になり 昭和十五年十二月二十日に退職した。
 極めて見識の高い手腕家で 今の市役所をつくる時に 人々が大き過ぎるといって反対すると『いや十年は大き過ぎ 十年が丁度いい加減で あとの十年が手狭になり 三十年たって改築するとよいのだ」といったという。

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いつしき 一色
 一種類の品物だけを貢納した中世の荘園のこと。又ただ一人だけの領有する荘園で他人の分を混じない田一円と同義などの解釈があるが 地形上 歴史上から考えてどうであろうか。
 田んぼのしき というように作り土でない砂礫土がしきで いいしきは少し高い川底の意である。四つ目川の氾濫と川の移動から命名されたものであろうか。

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いづみちよう 泉町

 天正四年(一五七八)琵琶湖に七層の天守閣の影をうつす名城 安土の城へ信長が移った年 中津川本陣の祖市岡長右衛門が安誉虎角を招き大泉寺を建立した。
 もとはここに瑞応寺という寺があったが 長く廃寺となっておったのでその場に建てたのである。
 文久二年(一八六二)和宮が中仙道を東下された翌年。この大泉寺は焼失してしまった。明治六年北野の現在地に再建された。
 本町から北へ入って寺の跡には墓地があるだけであるが 大泉寺へいく道なので泉町であった。明治二十年代には町のつき当りに泉座という小さな舞台があって 浄瑠璃の会や幻灯会 象の見世物などがあったりした。 大泉寺の使用していた井戸は 深さは二十尺程であるが 大変に良い水が出るので 水道のある今でも引きつづき使っている。大正七年五月横町で紺屋をやっていた山内文左衛門という人が それ迄の井戸わくが木で危いからとて石の側を寄贈した。これは今もしっかり残り使用されている。水道がひかれる前には この町内に井戸は三ヶ所しかなく 近所の十七軒がこの井戸を共用しておったが一度も水が涸れたことはなかった。盆の十六日が井戸かえときまっておった。

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いぬがえり 犬帰り
 中津川駅出口の右に 恵那峡下り 犬帰り恵那峡三九〇円の看板がある。犬帰りは木曾川畔の中でも 特別に険阻であり ついて来た犬でさえ これ以上は進めず 家へ帰った。それで犬帰りというようになったという。

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いのうえ いのした 井の上 井の下
 農業用水の重要さを私共に認識させる地名である。
中津川第一用水 上用水 又は新井水がひらかれたのは寛文二年(一六六二)のことであった。上金に水をひいて新田を拓こうと考え 代官山村氏の許しを得た 古橋源次郎義之が数々の苦心の末 この用水の開削に成功したのであった。
 この井水の測量にあたっては 道具らしい道具とてなく 暗夜に提灯をともしてならばせ 駒場の夜烏の辺りから遠望し 馬を走らせて高低を正したという。この古橋翁の記念碑は昭和二十八年 八幡神社の境内 井水の傍に建てられた。
 井の上 井の下は この井水の上方又は下方に位置するの意である。
 千旦林の中洗井 下洗井も 元来は新しくできた井水の意新井であろうが 開かれた年代は不明である。

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うえがね 上金
 手賀野を てがね という人が間々あるように 上金は上の野であろう。

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うえだ 上田 うえぢ 上地
 中村 成瀬利一氏屋号中津川の上に田を作ったから ここの新家 成瀬弘介氏が しんうえだ。
 新玉蔵橋を北へこすと苗木の上地である。これも木曾川の上にひらかれた士地の意であろう。

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うしがせ 牛ケ瀬
 山のようすが牛の背のようになっているので牛が背。
 山稜のことを うしともいう。
 川の流れをきいていると 牛がないているようなので牛が瀬。

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うしろだ 後田
 後洞に拓かれた田であるので後田である。町のうしろに開かれた田であるので後田である。後田川を越して北方は一面の松の木の林で一軒の家もなかった。
 開拓の始まったのは明治の末からである。こしようの坂を降って尼寺 西山への道の東側が 下後田 西が上後田であった 大正始め頃には下後田 桃山全部で四十九戸しかなかった。
 一中の西南の高木氏などが開拓の草分けであるが、大正の始め頃でも用事があって 夜の十一時頃提灯をとぼいて帰る時には、狐がちょろついたりしたという。
『狐ちやあ 大正の終り頃今の警察の辺にあった屠殺場で出来る血を入れて 神谷農園へ馬車で運んだことがあるが いきょうるちゅうと 追分けの辺で血のにおいをかいで 狐がついてくるもんやで 馬車に乗って ためとって 土の塊やなんぞを ぶつけてやるとぴょーんと とび上りよったねえ。狐ちゆう奴あ ようとび上るもんさあ』

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うつつとうげ 内津峠
 日本武尊は蝦夷東征の折 尾張国造(くにのみやつこ)建稲種公(たていなたねのきみ)の家に立寄っていかれた。稲種公は東征の軍に従ったが 関東平定の後 尊と別れ 尊は後世の東山道コースで 稲種公は後世の東海道コースで帰還の途についたのであった。
 さて 土岐川沿いに南下した日本武尊に一行が 濃尾国境の篠城(しのきつ)今の内津峠の西麓坂下に到り食事に取かかろうとした時 稲種公の従者であった久米八国というものが 馬にのり馳せ来って稲種公が駿河の海で失せ給うたことを知らせた。尊はそれをきくと「うつつなるかな。うつつなるかな」(心がうつつら うつらとして まるで夢心地だ)と歎き悲しみ給うたので この地をうつつと よぶようになった。

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うばのふところ
 一中の西の一帯がうばのふところである。南に向って陽を受け うばのふところのように暖かい所の意である。一中の辺も暖かく 一中から二中へかわった先生が 何という寒い学校やと口を揃えていうのも、二中の校舎が古いばかりでなく この地形の然らしむる所である。
 暖かくはあっても 新開の田んぼは土が少なくやせておった。田は石ころばかりではだしでは足が痛くて、とても入れるようなものではなかった。田植えの時も 土の少ない所は苗が立たんので仕方なく 小石を寄せて 立てるような始未であった。 反当り 一俵か二俵 時には皆無といったこともあり 七反で年貢が四俵というのでは 高すぎるとて 借手がない程の所であった。

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うまおりだに
 西山 谷が険しくて 乗って通っていけないので馬からおりて ひいていったので馬下り谷。

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うめのき 梅の木
 子野 辻村氏屋号 田んぼの名が昔から梅の木。梅が多く生えていたものか。

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うわばら 上原
 上の方にある原。原は斜面でない平地。明治二十一年の地図では 田も畑も家もほとんどなく山林ばかりである。僅かに近藤栄太郎氏の辺に少しの畑があるだけであった。ここに上宿へ通ずる用水が完成するのは明治三十二年のことである。

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えげ 恵下
 恵那山の下なので恵下。和名抄という平安時代に書かれた本に 恵那郡には六つの郷があり その一つに絵下郷がある という所から この恵下を古い村と考えた人が多かったのであるが 絵下郷は えのしものさとと読み えげではない。絵下郷は 坂下 苗木 福岡 付知 加子母方面 つまり川北のことであったらしい。

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えなさん 恵那山 恵那山の写真があるページへリンク
 大古 わが大八州の国をつくり固められた いざなぎ いざなみの二神は伊勢志摩の国に降り、御子天照大神を生み給うた。そこで清浄な水を恵那の谷に求められ 大神のえなを洗い清めて山に収められた。
 阿木の血洗はその折に洗われた場所であり そのため血洗神社には天照大神をまつるのである。舟の形の洗う所を作られたのが湯舟沢であり この谷の水が暖かくて清らかだったので温川(ぬくたがわ)というようになった。そしてえなを納めた山が恵那山である。
 胎児を包む膜をえな というのは子供のいえから来ている。これが多くの人々の信じている恵那山伝説である。
 しかし日本書紀に恵那山と推定される山が「大山(みやま)」と書かれていること。古代文化バロメーターの一つである古墳の存在が極めて少ないこと。下って鎌倉時代にも 恵那山ではなくて「遠山」とよばれていたこと、中部山岳地帯には恵那山以上の高い山はいくらでもあること、などから考えて、この伝説は江戸時代未期 国学がこの地方に流行した折に作られたというのが確かなように思われる。恵那のえは物の柄で大切なもののことだ。動物の餌に通って生命の基だ。上のえで平野の上の方にある意だ。などの説もあるがどうもぴったりとしない。
 ここで考えたいことは 恵那山を中にはさんで 西に恵那郡があり 東に長野県伊奈郡がある事である。
 そこで伊奈の郡名について下伊奈史の記載を見たい。いなは入野である。伊那の地には山麓地帯にひろびろした野が多いので「いりの」から「いな」になった。
 いなは稲である。即ち天竜川に沿う伊那谷は稲のよく繁茂する所である。いなはひなである。都から遠く離れた田舎であるので「ひな」である。ひは しに転化しやすいのでしなのの国ともなった。新羅より帰化した部の氏 猪名部氏が領有しておったのでいな とよぶようになった。などが主なものである。
 以上恵那の由来は 残念乍らはっきりしない。
 えなは 古書には江戸時代の一時期を除きすべて 恵奈を用いておったが 維新後 恵那を用いるようになった。
 尚 恵那山は標高二一九〇メートル。木曾川脈の南端に信し西日本の最高峰である。

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おいまきちよう 老槇町
 本町の電々公社の前を北へ入る道が老槇町であった。今の三楽の庭の所に槙の老木があったからであるが、これは本陣の庭であった。もとはこの一帯が郡役所で「道なんざ なかったなえ」

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おいわけ 追分
 一中前の道を西へ進み 尼寺からさらに北へ登っていった分れ道が 追分である。国鉄バスの停留所も恵那追分であるが 追い分けは 道の右左に分かれる所の称で 中仙道と北国街道の分岐点である 信洲追分 そこでうたわれた馬子唄 追分節が高名である。

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おおいわ 大岩
 お薬師様の前の辺に 何人でも上って座れる程の大きな岩があり その下は青淵かいとって時々人がとびこんで死んだと 聞く程であった。それでここを大岩といったのであるが この十間四方程の大岩は 中央線敷設の時 百円で売り全部割って使用した。鉄橋の橋脚に使われたという。
 お薬師様の石のせいか 大きくて魂があったせいか、この石を割った石屋さには あとで崇りがあったという。
 ここのお薬師様には比丘尼が常時六、七人も居住していたが 百六十年程前 文化の頃の火災で建物はすべて焼失してしまった。今でも可なりの信抑があり年間五、六万円からのお賽銭が上る由。賽銭泥棒が賽銭箱をこわしたりした 為 今では夕方に賽銭を集金し翌朝までは錠をあけておくとか。
 明治の末頃には隔離病舎がこの大岩にあった。
 今では女夫岩が大変に有名で 中津名所の一つとなった観がある。吉野秀雄氏の
  男の根岩 女の陰石に きほへども
    道をへだてて 合はなくもあはれ
   たくましき 雄岩の前に 横伏せる。
    雌岩かなし 二つならびて
の歌碑建立の話もある。(昭和四十四年に歌碑が建てられた)

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おおくご 大久後
 恵下と松田の間が 大久後である。くごは水づいた低温地いわゆる ぐてし である。又くぼ地のことである。北陸道に多い地名で この地名のあることは北陸と交流のあったことを示す という。

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おおさかやざんまい
 上金。中津に大製糸工場を経営していた勝野氏は屋号を おおさかや といった。盛大に酒屋を営んでいたからである。
 その墓地があるので 大酒屋さんまいである。今でも坂下では 墓地のことを さんまい とよんでいる

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おおぞれ
 川上。くずれることをぞれるという。急斜面で崩壊地があるので おおぞれ。

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おおだお
 川上 山中の鞍部は峠越しのキーポイントである。
トーゲ コエ ゴエ コシ ゴシ 串(くし) 息(よこい)などと呼ばれるが 中国地方では タワ ダワ タオ ダオなどとよばれる。
 大きな鞍部の この おおだか は関西系の地名といえよう。

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おおたまち 太田町
 日露戦争の頃 今の公民館の所にあった小学校で生徒達が声を揃えて歌った中津唱歌(中津高校小川準三先生父君作詩)は次の様なものであった。
 高くそびゆる 恵那の山 清く流れる 木曾の川 山と川との 中津なる 町は楽しき 我が里ぞ 
 気候温和に 土地肥えて 商う業も 事繁く 勇む笛の音 立つ煙 にぎわう様は 恵那一よ
 名も高丘や 大泉寺 旭が丘に 東円寺 雪の曙 花の頃 夏の涼みに 秋の月
 北は北野の 白山社 南中村 八幡宮 西と東を 貫くは 都に通う 中仙道
 日本武尊の 蝦夷攻めて 帰り給いし 道いづこ 恵下の あたりの 山際か 徳の古城の 跡むなし
 流れつきせぬ  中津川 大橋黒く 波白し 森のあなたに うす霞む 山は 苗木の 霞城
 木曾の早瀬に かけ渡す 玉蔵橋は 鉄の つり 南北恵那の つなぎなり 上地渡船も 遠からず
 手賀野斧戸は その昔 織田と武田の 古戦場 流せし血潮 たたえたる 黒血が洞ぞ 生ぐさき
 中津の川の 川上には 恵那の神社の宮居あり 遠つみおやの えな納む 頂までは 二里余り
 みたまを祭る 頃なれば 我も登山を 試みん 高さは二千数百尺 十一洲も 唯一目
 げに美しき 山水の 外にこの地の 産物は 生糸 木材 炭 たきぎ 鯉 羽二重に すずごおり
 駒つなぎしと 伝えたる 古きうまやの 駒場も 今に鉄道 開くるは 開けし御世の 恵なり
 めぐみ太田の 町裏に 立つは中津のステーション 汽笛の声の 残る間に 名古屋市迄は 一走り
 ゆきて帰らぬ 光陰を 仇に過さず 努むべし
 太田町の道路が出来たのは 明治三十年代の始めのことで 裏新道とよばれ水田の中の道で 一軒の家もなかった。
 十六銀行の辺は特に低くて どぶどぶの蓮池があった。鉄道開設と共に埋立てられて高くなった。明治三十五年の鉄道開通祝賀記念には 飯田から飯田相撲の一行を招いて この十六銀行の所に土俵を作って興行した。
「おすもさちゆうもんは よう喰わっせるもんやぜも。十二月で切り漬けが丁度つかりこんだとこやったもんやで 鉢にもってってさんだすと いっくらでもたべらしたで」 この新道の完成によって それまで収税部で行き止りになっていた花菱を この道に連絡したのである。
 この頃 今の東太田町に太田金次郎という人が越して来て鶏肉を売る店を始めた。この人は芝居を請けて来て勧進元をつとめたりする侠気のある顔ききであったので その人の名をとって太田町とよぶようになったのである。
 顔役といえば 伊藤裏吉という大工がある。元治元年(一八六四)武田耕雲斎の一行が中津を通った時、本陣によびつけられて、横田元網の首をもらい ふろしきに包んで提げてって 実戸に埋めたが 全くおそがかったと よく人に語ったものという。
 山半(間氏)と脇本陣森氏二軒の所有である、この一帯の田んぼは皆大きい田んぼばかりであったので太田町となった。
 いや太田というのは 大きい田んぼではなくて 宮柱太しくたてといえば 立派な柱をしっかりと建てるという意味であるように 太田はよく肥えたいい田んぼの意である。
 今の十一屋の所に 太田屋という宿屋があったので太田町である。「あの辺も 田んぼばっかで どんど場を作って 焼きよったなも」

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おおつや 大津屋
 菅井大作氏屋号先祖が大津から中津へ、うるし桶一杯の金をもってやって来たので、大津屋と称した。江戸時代には荷物取扱をしていた。

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おおなぎざわ
 川上 切りはらって植林用の地ごしらえをすることを なぎを切るという。夏の終りに乾操した所を焼き、かぶ 大根などをまき 翌年植林したものという。

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おおのまち 大野町
 恵那医院のある通りが大野町であった。これは大正の終りごろ この通りの東側に 駒場の大野民次耶氏が 五、六軒の長屋を作って 借屋としたが 当時この辺には 外には家がなかったので 大野町と呼ぶようになったのである。

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おおはげ
 一中西の尼時から道路を越して西側の住宅地帯が大はげである。
 小石と水のじぶじぶした 木の生えないような所が相当の広さあったので大はげである。
 はけは東国一般に岡の端の部落又は丘陵山地の片側をよぶ名で アイヌ語バケを踏襲したことばであるという。

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おおびよも 大日向
 阿木飯沼 禅林寺東方の一帯が大日向とよばれている。大びよもの名にふさわしく 日照の豊かな南を受けた斜面である。斜面の下の方には日照が多少 少い意の小日向の名がつけられている。標高約六〇〇メートルの地点である。
 今から二千年以上前 縄文時代とよばれる時代の人々は こうした日当りの良い地点で附近に水が得られる地点を選んで住んだのであった。竹山憲治氏所有の百坪ほどの畑からは 以前から矢の根石や土器片が発見されておったのであるが 昭和四十二年二月十三日 この畑の一番高い所から 大井 長国寺住職 小島祥瑞氏らの手によって 口径三十六センチ 高さ五十センチ程の大型の甕 が発堀された。径十ニセンチ程の底部には あじろ紋を持つこの甕は名古屋大学澄田正一氏の鑑定によって 縄文前期のかめ棺らしいと発表された。 あとこの甕は名古屋大学考古学教室へ送られ破損部を 修埋復原され 現在禅林寺に所蔵されている。
 昭和四十二年八月十七日より十日間 名古屋大学大参義一氏を団長とする調査団によって この大日向遺跡の発堀調査が行なわれた。
 矢の根石百余 石の皮はぎに 糸を紡ぐ時使用された石製紡鐘車一 縄文土器及び土師器の破片多数と古墳時代の方型の住居址三 縄文時代の円型のいわゆる堅穴式住居址二、などがほり出された。これから大日向は縄文時代早期 前期 古墳時代の複合遺跡であると考えられる。
 古墳時代というと 米作り農業が行なわれる様になった時代であるが この時代の初期の米作りでは この大日向のような 谷の奥で 水の出る所が多く使われている。堤を築いたり 用水路を用いたりする高度の技術はまだ持っていないので 湧き水を利用したささやかな米作りであった。
 高校の北 北野の熊野井の附近なども 初期の米作りの行なわれた場所と推察される。
 近くによしわら(よしの生えた原)と呼ばれる湿地があって 大人でも 胸までも沈む程であるが この周辺などでも米作りが行なわれたものであろう。無肥料 じかまき 穂首抜取の当時の農業では 反当収量は二斗位であったと推定されている。(現在では、じかまきはなく、田植方式だったといわれている)

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おおひら 大平 大峡
 一中の辺が大平である。これは一中のグランドの辺に大きな平らな畑があった所から来た名前である。
 昭和二十二年四月一日から学制改革によって いわゆる六三制が発足した。中津に於ては南小学校校舎を借り受け 恵北中学校が設立され 校舎の関係上二部授業が行なわれた。
 昭和二十三年九月一日をもって恵北中学校は廃校となり 新たに 第一中学校と第二中学校が新設され、二中は九月六日もとの商業学校の校舎に引移って開校したが 一中は校舎未完成のため引続いて南校で授業を行なった。
 やがて昭和二十三年十二月五日 この大平に新校舎完成 落成式並びに開校式が行なわれた。初代校長は小島幸吉氏 生徒は八学級三九〇人であった。
 県では 新しい学校を第一中学と指定し 三宅武夫先生を八月三十一日付で第一中学校長に発令した。しかし 当時 PTA会長をしていた林義之氏らは大きい方が一中では 小さい方の生徒が劣等感を持つことになると心配し 新しいというのを 新校舎が建つ方と解釈して現在の様に旧商業の方を二中 大平の方を一中としたのであった。

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おかだ 岡田
 中村 石田権吉氏屋号 家の裏に竹藪があり 家の辺一帯が小高くなっており水害がないと即ち岡になった田であるといわれていた。
 実際どこからきいてか四つ目川大水害の時には大勢の入々が避難してきた。

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おくりがみのね
 川上の地名 阿木川上の人は皆 ここまでずつ七夕の竹を送って来た。即ち送り神のねである。

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おこし 起
 四目川を 第一用水が越していくあたりが おこしである。農業が主要産業であった時代の命名であると考えると面白い。
 川上 今井竹夫氏の屋号がおこしであるが 理由不明。丸山ともよぶ。

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おさき 尾崎
 尾崎 は尾先と書いた文章もあるようで 尾の先 つまり村外れの意である。この尾崎の中でも一番下手にあたっては鈴木氏の屋号を おしもとよんでいるのも同じ発想法である。

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おしゃごじ
 後田の尼時の下の辺 大はげの住宅の辺が おしやごじ 又はおしやぐじであった。恵那神社誌によれば おしやごじは太閣検地の際の間縄を納めた所である。
 しやごじは諏訪明神系の土着神であった。それが出雲系の神々に追われて 今では伊勢から紀州の一部の東にしか分布していない。東国では一般的に信仰されている神で しやごじ信仰を研究している人もある。
 おしやごじは訛って 坂本八幡神社の前の小祠などおしやもじ様とよんでいる。
 後田のこの辺りにも かっては おしやごじが祀ってあったものと見えて 田中清治氏の屋敷を造る時仏像様のものが出出し 現在 駒場 福昌寺に安置してある。

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おちあい 落合
 美濃路 与坂より 木曾路十曲峠より 伊奈路神坂よりと三方から落合っているから落合である。
 続日本紀の中に 文武天皇の大宝二年(七〇二)「始めて岐蘇山道を開く」とあるのが 神坂越の東山道が官道として開通したことを示す記事である。
 同じく元明天皇の和銅六年(七一三)に「美濃 信濃国道険阻なるを以って新たに吉蘇路を開く」とあるのは、木曾谷を行く後の中仙道の道すじを通り 鳥居峠'を越して信濃国府である松本に到る道路が開通したものであろう。落合はこの二道の分岐点である。
 おがらんでは 古代の行旅の安全を神に祈った時供えた石製模造品の小さい石剣が一箇だけであるが発見されている。
 畿内から出かけてくる時には 追分けになるが、都へ上る時を考えると落合である。
 降って源平争乱の世 木曾義仲の妻 巴御前は有名な女傑であるが 巴の兄弟に落合五郎兼行がある。向町の愛宕社は ここに住んでいた落合五郎兼行の霊を祀るという。従ってこの頃には落合の名があったことが分る。
 湯舟沢川と 釜沢川が落合っているので落合である。
 江戸時代の高は 四八〇石一升で山村甚兵衛 千村平右衛門の領地である。寛政の戸数は一四五戸 男女合わせて七九二人。明治の末で三五〇戸 一七〇六人である。

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おとざか 音坂
 千且林 東之巣川上流から西に越す音坂は新十九号線では あっという間に過ぎるが 昔日本武尊が ここを通られた時に鶏がうたったのでうとう坂 とよぶようになったという。
 くぼを利用した緩傾斜の坂で 西側が高い地形を一般にうとう坂 とよぶのであるが 現地の地形は坂の上り口はこれにあてはまるが あとは南斜面の中腹を行くものである。古い道の訳であるが神明沢に 明治十八年の馬頭観音があるだけで あとは道しるべもその他の石造物もない。この馬頭観音もここに血取場があったので建てたものということである。

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おばと 尾鳩
 中津を鳩の形に見立てると 鳩の尾の辺に当るので尾鳩という。
 ここに恵那御料林及町有林のもみ つがを主要原料として中央製紙株式会が操業を開始するのは明治四十一年五月のことである。
 その後大正九年には木曾輿業を合併し 大正十五年には樺太工業に併合した。
 当時の職工就業規則によると

1.職工は本雇工 試験工 臨時工の三種である。

2.資格別は 職工頭 副職工頭 職工頭心得 職工の 四種である。

3.就業時間 十五才以上の男子 昼間午前六時より 午後六時まで 夜間午後六時より午前六時まで 十五才未満の男子及び女子 昼間午前七時より午後五時半まで 夜間午後七時より午前五時半まで

4.休日は正月元日および 毎月一回 ただし十五才未満の男子及び女子には 毎月二回 尚昼夜交代作業者は毎月四回の休日を与える。

5.身体虚弱作業にたえぬと認めた時 技能発達の見込なしと認めた時 事業上の都合による時 いずれも 二週間の予告を以って解雇する。

 大正五年 初めて賞与が支払われた 日給五十銭の者は 六ヶ月満勤者 九円 六ヶ月中一度の欠勤者 八円二十五銭 六ヶ月中二度の欠勤者 七円五十銭であった。
 この頃 男工百七十二人 女工六十七人であった。
又 請負人夫の日給は八十五銭から六十銭程度であった。
 昭和八年には王子製紙に併合したが 戦後の財閥解体により 王子製紙が 王子 十条 本州の三会社に分かれたので 昭和二十四年八月から 本州製紙中津工場となったのである。

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おわり 尾張
 尾張氏は物部氏などと並ぶ有力な豪族で はじめは大和河内に本拠があったが 古墳の時代には 東海に移ってきた。この尾張氏が居ったのが尾張の名の起源である。古くは乎波里 尾治 小針などをあてたこともある。
 全国統一を進めていく大和の朝廷は その権威を示すために壮大な前方後円墳を営んだ。このため大和の朝廷の力が直接に及ぶ地域には前方後円墳が作られていった。中津川に最も近い前方後円墳といえば 可児郡上之郷まで行かねばならない。即ち濃美の平原が尽きる東の果てである。
 そしてこのことは崇神天皇の皇子 八坂入彦命が可児郡久々利に住んだという いい伝えに照応するものである。

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